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受賞のことば

農福連携がもっと日本中に広がっていけばいい

佐伯康人さん

株式会社 パーソナルアシスタント青空代表取締役

1967年、福岡県生まれ。90年、ロックバンド WIZKIDS のボーカルとしてインディーズデビュー。92 年、東芝 EMI から CD デビュー。97 年に家業を継ぐため帰郷。2000 年に三つ子を授かるが脳性まひに。以後、地域ボランティア、三つ子ちゃんを支える会に助けられつつ、障害児を持つ親の苦悩や行政サービスの不備を感じ、自ら居宅介護、訪問介護事業を開始。05年、有限会社パーソナルアシスタント青空設立。児童デイサービスや介護タクシーなど順次展開。06年、営利部門メイド・イン・青空 発足。09年、B 型事業開始。10年、無農薬自然農法を実践。14年、多機能型事業を開所。

新しい仕事を生み出すんだ

地域に暮らす障害を持った子どもたちが学び、働く場を見ていく中で、いくつか納得できないことがありました。もともと常識ある大人という僕ではなかったので、そのせいもあったのかもしれませんが、もっとちがう方向があるんじゃないかと、ずっと考えていました。そこでふと農業に目が行きました。ひとつの仕事に障害のある人たちを入れるのではなく、ひとりひとりに合った仕事を提供する。百姓というぐらいだから、畑仕事を細分化していけば、千にも一万にもなるんじゃないか。適した仕事に彼らがそれぞれ特化していけば、一芸に秀でた職人になるのではないか。

また、こんなことも思いました。作業所で毎日同じひとつ0.1円の仕事をしてお給料3000円という人たちがたくさんいました。その商品の価値を1円にできればお給料は3万円に、10円にできれば30万円になる。

僕は「新しい仕事を生み出すしかないんだ」と想像しつつ、生まれて初めて農業というものをやりました。蝶々がきれいだなと思いながらキャベツを植え、気づいたらキャベツが全部、虫に食われてなくなってた。そんなレベルからです。

地域を再生させる福祉へ

最初は肥料や農薬、除草剤だらけで始めましたが、奇跡のリンゴで知られる木村秋則さんと出会いました。自然栽培に取り組むなら「まずは田んぼが簡単だよ」。その言葉に従いました。

自然栽培の田んぼと隣の田んぼ、よく見てみると生態系がまったくちがうことに気づきます。自分たちの田んぼにはさまざまな生き物が稲といっしょに暮らしながら稲を支え、稲がまた生き物たちを支えている気がしました。そのとき、なんとなく自分の子どもたちを支援してくれる地元の人たちと地域の姿が重なりました。「あぁ、自然栽培の世界を突き進んでいこう」。そう思いました。

それからは一気に6町の耕作放棄地を自然栽培で再生していくようになりました。それまで「仕事ができるわけがない」と言われていた彼らが、逆に荒れた土地や水路を、地域の問題を解決している様はじつに痛快でした。

僕らはまだまだですが、それでもこの小さなモデルケースを全国に広げていけたらいいと思っています。福祉の力で福祉の仲間たちと農業の再生をすることは、大袈裟かもしれませんが、ひとつのルネッサンス。日本を元気にすることにつながると思うからです。

そのためにも飲食や6次化にも取り組んで、しっかりとしたモデルに自分たちがならなければいけない。それがいまの目標です。

佐伯康人さんへ贈られたお祝いの俳句

実る秋 野から人から湧く力

花田春兆

ショックだったのは、これだけの大事業を成し遂げさせた、そもそもの原動力になったのが、授かった CP (脳性麻痺) のお子さん方だった、ということ。同じ重い CP で長い生涯を生きて来た私には、ずしんと来る重さ以外のなにものでもなかった。

自然に自分の両親が想われて、親しみが湧いた。飛んででもお会いしたい気分。数年前だったら、さっそくハンディキャブを予約していただろう。

写真で見る広大な田や畑が無農薬無肥料であるのには驚かされる。

まさに若い力でのゼロからの切り拓き。それを不屈の努力で乗り越えて見事な実りの秋を迎えるまでに導かれたのだ。だからこその授賞。終戦直後ゼロからの経験をしている我々世代には、痛いほどピイーンとくるのだが、大勢を占めつつある戦争を知らない世代に、どこまで染み込ませ得ているのか。改めてそれを問い直させるという意味からも、賞が持つ意義は大きいはずだ。

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