このページは音声読み上げブラウザに最適化済みです。

震災から5年、彼らはいま

2011年3月11日に発生した東日本大震災は、人々から大切なものを奪い去りました。ヤマトグループは「宅急便1個につき10円の寄付」をヤマト福祉財団をとおして、おこなうことを発表。さらに、グループ以外の多くのかたからも募金をいただき、東日本大震災生活、産業基盤復興再生募金として、計31件、総額142億1849万8102円の助成をおこないました。財団では各助成先を訪問し、みなさまに復興の様子をお伝えしてきました。

あれから5年、あの時出会った人たちは、現場は、いまどうなっているのでしょうか。

宮城県 南三陸町

東日本大震災 生活、産業基盤復興再生募金の概要

基盤件数助成額
水産業16件73億2248万102円
農業5件24億9701万8000円
生活、商工業10件43億9900万円
合計31件総額142億1849万8102円

応募総数174件 997億5400万円

2012年6月30日をもって、東日本大震災 生活、産業基盤復興再生募金による助成事業は終了いたしました。

宮城県

水揚げ量は9割近くまで回復。海業で町の活気を取り戻す。

南三陸町には、忘れられない光景があります。それは津波で骨組みだけとなった南三陸町防災対策庁舎。周辺にあった市場設備や住宅などはすべて津波に流され、ガランとした跡地だけが広がっていました。

今回訪れてみると、震災遺構として保存されている防災庁舎の周りには、山のように盛り土がされていました。復旧、復興は進んだと言われていますが、その道のりは長く、まだこれから。これは他の被災地も同じ状況です。それでも、地域産業を復興させ、住まいを、仕事を取り戻し、故郷の地に足をつけてくらせるようにと努力を続けています。

よいものを作り続けることが一番

宮城県漁業協同組合 志津川支所運営委員会の佐々木憲雄委員長もそんなおひとりです。

「今年は、サケが昨年よりやや少ないですが、ワカメ、カキ、ホタテ、ホヤなどは順調です。水揚

げは、震災前の8から9割まで回復しています」と佐々木委員長。

思い起こせば、南三陸町の仮設魚市場は、本助成の中でどこよりも早く復興に向けて動き出し、目に見える形となった事例のひとつです。

「津波で破壊された魚市場の機能を取り戻さなければ、苦労して育て放流したシロザケの遡上に間に合わなくなる」と南三陸町が助成を申請。急ピッチで仮設市場の建設をおこない、震災から約7ヵ月後には初セリをおこないました。喜びに満ちた市場の様子は、忘れることができません。その後も仮設ワカメ作業所や仮設カキ処理場などの建設、震災後初のカキ出荷の際などにも南三陸町を来訪。お会いする度に、佐々木委員長の表情は明るく変わっていきました。

「カキの養殖では、養殖イカダの数を減らすことで、美味しくて身の大きなものを育てることに成功しました。今後もよいものを作り続けることが大事だと考えています。6月1日には本市場もスタートする予定ですし、これからですね」とほっとした表情で話しています。

この市場を南三陸町復興の弾みに

「本市場には、氷や油、資材などを補給できる設備も整え、より多くの漁師さんが利用しやすい市場にしたいと考えています」と話すのは、志津川支所の佐藤俊光支所長。

「かつてワカメの収穫時などは、お年寄りから孫までが、早朝から一家総出で作業をしたものです。しかし、いまは仕事や住む場所を求めて、若い世代は町を離れ、お年寄りと別々にくらす家庭も多くなっています」。

現在、市場で働いているかたの多くが、市場から離れた場所にある仮設住宅から通っているため、以前のように思いどおりに働くことができないでいます。

「必要なのは、仕事、住居、そしてインフラなどの整備です。そのすべてを満たすとなると、ハードルは高く時間もかかるでしょう。しかし、浜に活気は戻ってきています。現在、漁協関係者が新しいカキ小屋も用意し、今年から稼働予定です。また、3、4社が加工場を建設中で、これからは雇用も増えてくると期待されています」と話す佐藤支所長の顔は自然と笑顔に。魚市場の近くには商店街が移転する計画もあり、海業で町はさらなる復興を目指しています。

今年も戻って来たシロザケに南三陸町の志津川漁港が活気づく。

養殖イカダの数を減らすことでカキが育ちやすい環境に改善。「いまはこんなに立派なカキに成長しました」と市場のみなさん。

本市場のスタートは6月1日からの予定。雇用の場も増えていくと町の期待は大きい。

地元の海に適した種苗を開発。七ヶ浜のブランドを全国に

自前のノリ種苗で、みちのく寒流のり を復活させたい。生産者の声に応え、七ヶ浜町水産振興センターは、震災で失った設備や建物を本助成で復旧しました。

豊かな七ヶ浜の海の幸を取り戻す

「全国からノリの糸状体を集め、宮城の海に最適な種苗の開発を目指しています。地元の生産者からは、以前よりも早く収穫できるし、品質もよいと評価をいただき、初出荷数は3万枚とこれまでにない量になりました。宮城のノリは、パリッとしてコンビニのおにぎりなどに向いています。そんな特性をアピールしたいですね。七ヶ浜の名を入れてブランド化する話も出ています」と宮城県漁業協同組合小野秀悦専務理事は話します。

七ヶ浜町水産振興センターでは、豊かな七ヶ浜の恵みを復活させるため、ナマコ、アサリ、ウニ、ヒラメ、ホシガレイなどの開発も進めています。

「ナマコの養殖プールには、30㎜以上の放流できるサイズに育ったものが3000匹近くいます。目標は10万匹で、七ヶ浜以外の県内の浜に放流し、再生に尽力したいと考えています」。

仕事を再開、ノリ生産者に笑顔が戻る

七ヶ浜に並ぶノリ生産工場の多くが津波で流されてしまい、本助成で必要な資機材などを支援しました。宮城県漁業協同組合 七ヶ浜支所運営委員会委員長の齋藤吉勝さんは、6名の仲間と再建に成功。「最盛期には、助成で購入した毎時7000枚のノリを生産できる機械をフル稼働させて、1日7、8万枚を生産しています。震災当時は、みんな下を向いてばかりいましたが、いまは毎日笑顔で働いています」。

現在、七ヶ浜のノリ生産者は約46名、生産量は9900万枚に増加しましたが、当初の目標には届いていません。「人も生産量もすぐに増えることは難しいでしょう。いまは地元の海で働き、稼ぐ喜びを、若い人たちに伝えていくことが大切だと考えています」。子供たちには、自分たちの働く姿を見学してもらうことで、多くのことを学んでほしいと願っています。

組合が建設した共同作業所で水産加工のプロたちが再建へ挑む

生鮮カツオの水揚げで全国一を誇る気仙沼市には、水産加工場が林立していました。しかし、その大半を津波が奪い去ります。「組合員に再建のチャンスを」と気仙沼水産加工業協同組合は、共同の作業場として仮設水産加工団地、母体田地区水産加工団地を建設。しかし、国や団体からの支援は建物のみ。設備などがなければ、動き出すことはできないと本助成に申請しました。加工団地に はいった組合員は計9社です。

消費者目線でより喜ばれる商品を

「なんとかなりそうだ、と思えたのは一昨年ぐらいからでしょうか」と話すのは、カツオやマグロの角煮、総菜などを製造するマルチ村上商店の村上祐一専務。「再開できたのは、震災から1年半後。その間に、取引先は他県の加工業者に切り替えてしまい、その年の売上は、震災前の30パーセント程度に。以前と同じ商品では売上の改善ができないと考え、購入しやすいボリュームに変えたり、味に変化を付けるなど、消費者目線で工夫するようにしました。その成果が実り、次第に取引先も増え、翌年は60パーセント、3年目で75パーセント近くまで回復しました」と村上専務は話します。

それぞれの得意とする技で信頼を

気仙沼市には、カツオ以外にもサバやサンマ、メカジキ、サメなど豊富な魚が水揚げされ、その素材を活かす独自の加工技術で、組合員たちはさまざまな加工品を製造しています。

大弘水産株式会社は、燻製技術が売りの会社です。小野寺大輔専務取締役は「うちはサバの味噌漬けなどもつくっていますが、主力はメカジキの燻製や〆サバ、炙りなどの洋風総菜なので、ホテルや洋風の居酒屋などで使っていただいています。時にはムール貝やヒラメなどで燻製品が作れないかと、新しい依頼もありますが、再開時に熟練した技術、経験を持つ従業員が戻ってきてくれましたので心強いです」と話しています。

「気仙沼の魅力を発信できる、中身のある製品を作ることが大事」。気仙沼水産加工業協同組合の各組合員は、そんな共通の意識を持ってそれぞれ独自の工夫を続けています。

七ヶ浜町水産振興センターで種苗を育て海に放流されるナマコ。

齋藤吉勝委員長の工場では助成で購入した、毎時約7000枚のノリ生産機が大活躍。

市場にあわせた新商品を開発。従業員にも笑顔が戻って来たマルチ村上商店

メカジキの燻製品は大弘水産の評判の一品。「技術を持つ従業員がいるから安心」と小野寺大輔専務。

安全、安心な農作物づくりを若い世代に伝えつないでいきたい

風評被害を跳ね返す新しい方法を

「土、地下水が塩害に遭いましたし、原発事故による風評被害も心配でした。そこで安心、安全ないちごづくりを目指し、温度や養液の管理などをコンピュータ制御できるビニールハウスで高設栽培を始めました」と山元町にある山元いちご農園株式会社の岩佐 隆代表取締役。

宮城県は、沿岸部に広がるいちごのビニールハウスから内陸部の田畑までが津波の被害を受けました。県は被災した農業生産者を応援するため本助成に申請。その援助を受けて岩佐氏は会社を立ち上げ、現在は1棟20アールのビニールハウスを8棟の規模で、パートを含めると約45人がいちごの栽培に従事しています。

「1年目の売上はわずか1500万円。どうなることかと思いましたが、昨年は1億7000万

円に。その約4割がいちご狩りの収益です。年々お客様は増え、昨年は5万人がここを訪れています」。来年の目標は6万人と話す岩佐氏は、津波で壊滅した宮城県唯一の山元のワイン工場を再開させるため工場建設も進めています。

グローバルギャップも取得して信頼を高める

「未来はもっといぐなる(よくなるの方言)」を合い言葉に、4人の仲間と東松島市で株式会社イグナルファームを立ち上げた武田真吾取締役。いろいろな野菜をつくっていますが、武田氏の担当はキュウリです。「キュウリは、毎日、根の状態や茎の太さを見極め育てていくため手間がかかります。でも6ヵ月と収穫時期が長く、採れる量も多いので、愛情をかけた分、応えてくれるかわいい野菜です。収穫後の夏場はトマトを植え、無駄なくハウスを稼働させ、パートのかたには1年をとおして働いてもらえるようにしています」。

トマトを植えることは、連作障害防止にもなり一石二鳥。そんな職人気質の技は、地域のお年寄りたちから学びました。また、農業版 ISO とも呼ばれるグローバルギャップも取得。安全で信頼できる野菜を、国内はもちろん海外も視野に入れて、坪2万5000円以上の売上を目指しています。

人とのつながりで6次産業化のアイデアを

「若い人が頑張っているとついアドバイスしたくなる」と話すのは、農事組合法人仙台イーストカントリーの佐々木 均代表理事。震災前から若林区で法人として耕作放棄地の管理、運営をおこなってきましたが、津波に田畑も農機具も流されてしまい、仲間からは「やめてしまおう」という声も出ました。

「いま諦めたら次に続く者たちがいなくなると説得しました」と話す佐々木氏はなかなかのアイデアマン。助成で農機具などを購入し、現在72 ヘクタールの田畑でお米を作っています。お米はおにぎりと豚汁のセットにして、幹線沿いにある店で販売。いまや1日800食以上の売り上げになっています。他にも米粉麺やスティックご飯なども開発中です。

「これからは、若い人たちの時代。彼らが、どんな人と出会い、自分なりに工夫してどこまでやれるか楽しみです。6次化のアイデアも人とのつながりから生まれてきますからね」と話しています。

新しい花も加えて1年間生産できるように

宮城県の農業と言えば名取市花卉生産組合の「津波に負けないカーネーション」。副組合長の三浦洋悦さんは、この町で花づくりを続ける9件の農家のひとつ。40年以上花一筋で頑張ってきたノウハウを活かし、泥の中から見事に花を咲かせました。「花を見た時、諦めないでよかったと心から思いました」と話します。

同じように津波で泥だらけになったハウスの中で奮闘していた菅井俊悦前組合長は、現在、息子の菅井啓貴さんに花づくりを託し、耕作放棄地の再生を図る農業法人の副代表理事を兼務しています。

以前取材にお伺いした時、奥さんのお腹が大きかったと記憶にありましたが「子供が生まれて、私も本腰を入れてやる気になりました」と啓貴さんは笑って話します。「カーネーションは、6月に定植して育苗するため、夏場に出荷、売上を伸ばせるカーネーション以外の品種にも挑戦したい。父の方法をそのまま受け継ぐだけではなく、自分なりに研究したやりかたを試してみたいのです」と啓貴さん。1000坪のハウスをさらに拡大しようと意気盛んです。

「ハウス内の温度や炭酸ガス濃度などをコンピュータで管理している」と山元いちご農園の岩佐 隆代表取締役。

イグナルファームの武田真吾さんは、日々手をかけて美味しい均質なキュウリを育てている。

若い人たちの成長が楽しみと話す、仙台イーストカントリーの佐々木 均代表理事。

苦労はしますけどやっぱり花を育てるのが楽しいと笑う三浦洋悦さん。

菅井俊悦前組合長から息子の啓貴さんへ、カーネーションづくりは受け継がれていく。

岩手県

久慈市,漁港の製氷貯氷施設など

新しい製氷、貯氷施設をフル活用。海に合わせた柔軟な対応を

いくら港が使えるようになっても製氷、貯氷施設がなければ、市場に水揚げはできません。岩手県は、本助成を活用し被災した13の魚市場の製氷、貯氷施設の復旧を応援。久慈漁港には、1日50トンの製氷能力、約2000トンの貯氷能力を持つ施設が誕生しました。

「おかげさまで2014年度は、約5150トンの給氷量となりました」と、久慈市漁業協同組合の製氷冷凍工場の玉澤孝則課長。施設は完成しましたが、当初は漁師さんの道具がなかなか揃わず心配したと話すのは、魚市場課の大向幸弘課長。「漁師あっての市場ですからね。いまは船、カゴ、網、すべて整い、みなさん、本来の仕事に戻ることができています」。

組合では加工部門に特に力を入れています。「加工部門の取扱量は、震災前が約4億3000万円だったのに対し、昨年は5億円を超えました。シメサバが主力となっていますが、他にも、骨取りサンマという商品があります。これは大船渡に氷を供給したことが縁となり、鮮魚に向かない小ぶりのサンマを久慈で加工して有効利用してはどうかと提案されたことから始まりました」と食品工場の村上順一工場長。今年からイカの洋上活じめ、沖漬けなどの加工も開始する計画です。

中村 貢参事は「震災後、市場が再開した時、久慈を応援しようと青森、三沢、大間、北海道などの漁船がイカを水揚げしてくれました。地元の漁師さんを大切にすることはもちろんですが、今後は外来船の誘致も積極的にアピールしたいと考えています。ここは、かつて巻き網船で、サバを中心に潤った港ですが、時代とともに水揚げされる魚種も変化しています。何が来ても柔軟に対応できる、海に合わせた加工や冷凍をやっていきたいですね」と話しています。

釜石市,製氷貯氷施設、移動式砕氷車両、殺菌冷海水製造装置など

衛生管理された市場の機能を活かし、魚のまち、釜石の新たな魅力を発信

釜石市漁業協同組合連合会は、岩手県が申請した製氷、貯氷施設の支援以外にも、本助成を活かして津波で破壊された魚市場の再生を図りました。新浜町第2魚市場に殺菌冷海水製造装置20トンと移動式砕氷車両を、新浜町魚市場も同装置30トンを導入。市場内を自由に動き回り、素早く氷を供給できる移動式砕氷車両は、その使い勝手のよさを他の漁港関係者が見学に訪れるほど。氷の消費が激しい夏場は、特に威力を発揮しています。

殺菌冷海水製造装置の導入効果も非常に大きいと原田祐吉参事。「市場には、船内で氷により冷やされた鮮魚が水揚げされます。そこに7度以下に設定した殺菌冷海水を入れることで、つねに冷えたままの状態をキープ。殺菌冷海水製造装置で安全な鮮魚を提供でき、消費者からのクレームも事故もなくなったと評判は上々です。組合員の中には、サケの卵の洗浄にも使用し、安心、安全な商品を供給しています。使う人だと1日に500キログラムから1トン。電気代が1ヵ月10万くらいかかりますが、当面は無償で提供しています」。

ただし、手放しで喜んでばかりもいられない、と原田参事。そのひとつが海水温変化の影響です。

「昨年辺りから、回遊してくる魚の種類が変わり、量も少なくなってきました。また、年齢的に漁師を続けるのがつらくなり辞めてしまったかたが30パーセントくらいいます。でもその一方、故郷、釜石で漁師を始めたいと Uターンしてくる若い人も増えてきました。釜石の秋サバは、脂が乗って旨いと評価が高いので、ブランド化で巻き返しを図る準備を進めています」。衛生管理された市場の機能をどう活かしていくか。魚のまち、釜石は、新たな転換の時を迎えています。

次々と手際よく加工されていくサバ。加工工場での取扱品目もさらに拡大する予定。

できあがった氷、約2000トンを貯氷可能。角氷1枚が143キログラム、7枚で約1トンにもなる。

故郷に戻って働きたいと思える魅力ある漁業へ。そのためにもこの施設をうまく活用したいと原田祐吉参事。

釜石市、大船渡市ほか,水産加工の製造設備、放射能検出器など

必要なのは信頼を取り戻す努力と、新たな顧客を獲得するアイデア

「水産業の再生には、漁業、養殖業、水産加工業のどれが欠けても成り立たない」と考えた岩手県は、本助成を活用して県内107の民間加工会社の支援を始めました。

自社ブランドの信頼回復に全量検査を徹底

釜石市内で工場を再建した株式会社津田商店は、学校給食を主とした自社ブランドの冷凍食品と、サバやサンマの缶詰などの OEM 製品を製造、販売しています。「しかし、再開した最初の年の売上は、風評被害の影響で震災前のわずか6割。再雇用できた170名の従業員のためにもなんとかしなければと全員で営業に走り回りました」と平内浩史課長。助成で放射能検出器も購入し、安心、安全を徹底することで学校給食としての自社ブランドの信頼を回復しました。

「放射能検出器を利用し、国の示す10分の1を基準として、三陸産の魚の全量検査をおこなっています。三陸産の魚が風評被害に遭っても、検査の証明書をつけることで、安心、安全に食していただいています」。

そんな努力の甲斐あって取引先は着実に広がり、9割近くまで売上が回復しました。

「いまは人手が足りずに生産が追いつかないほどです」とうれしい悲鳴を上げる平内浩史課長。

従業員の多くは、山の上の仮設住宅で暮らしているため、会社は送迎バスを出して送り迎えをおこなっています。受注する仕事はあるけれど、従業員の状況を考えれば、残業や休日出勤をお願いできない。だがそれでは顧客の要望に応えられない。そんなジレンマが続いています。

業務問屋から通販へ、舵取りを変える

同じく釜石市にある小野食品株式会社は、震災前、サケやサバ、マスなどを釜石市内のふたつの工場で焼魚や煮魚に調理し、商社や問屋を通じて、全国のホテルや外食産業に卸していました。

「運良く釜石の工場のひとつの被害は少なく、オーバーホールして震災後3ヵ月で事業を再開できました。しかし、それまで売上の70パーセントを占めていた業務問屋からの依頼が30パーセントと落ち込んでしまったのです」と小野昭男社長。そこで震災前から手応えを感じていた通信販売へと方向を転換。徐々に通販事業のお客様を増やしていきました。

「結果的にそれが成功につながりました。エンドユーザーである消費者に集中することで売上を回復。震災前の3月期から比べて、2014年度は141パーセントの売上となりました。現在の通信販売顧客は約10万人います。アンケート調査をおこなったところ、パンやワインに合う商品を求められているとリサーチできました。今年の4月に隣町の大鎚町で開設する新工場では、新メニューの開発、製造にも取り組む計画です」。

じつは大鎚町には震災のわずか2週間前に竣工したばかりの工場がありましたが、被災してしまいました。今回は、その1.5倍の新工場を建設して再チャレンジです。

機械化と加工品目の絞り込みを進める

大船渡市でスルメイカのフライ、唐揚げなどの冷凍加工食品を製造販売する株式会社國洋は、津波でみっつあった工場すべてが被害を受け、保存していた商品や原材料、そして大切な設備の大半が損壊しました。大船渡港に隣接する本社は、奇跡的に骨組みだけが残り修繕することが可能に。175名いた従業員の3分の1が復職できました。

「必要な機械も足りなくどうやって事業を再開したものかと頭を抱えていた時、助成のお話をいただいたのです」と吉野清係長。助成で購入したのは、皮すき機、自動計量包装機、リング カッター、シャトルコンベアなど。機械化だけではなく、300くらいあった加工品のアイテムを100くらいに減らすことで効率化を図り、売上を震災前の約半分まで回復することができました。

「今後は、水産にこだわらず、設備した焼成機やフライヤーを活かし、県内の野菜を使った天ぷらの加工品なども手がけてみようと考えています。ただし、いくら機械化を進めても、大事なところは人の手に頼らざるを得ません」と吉野係長。ここでも人手不足は深刻な問題です。

岩手県沿岸地域から、ガレキの山は姿を消しました。いまは道路、土地のかさ上げのためにトラックが激しく行き交っています。早く住宅が建てられるようになり、人々が故郷に帰ってくることができるように。家族と一緒に自分の家で暮らし、仕事に出かける、そんな当たり前の状況を取り戻せるように、みんなが待ち望んでいます。

津田商店は学校給食を中心に、自社ブランドの冷凍食品を製造。

消費者の声を反映した商品をと、通信販売に力を入れる小野食品。

イカの加工中心から、地元の野菜を使った加工品まで、國洋は仕事の幅を広げて、売上拡大へ。

野田村, 保育所の移転、建設、遊具の購入など

子どもたちは地域の大切な宝物。その笑顔に大人は励まされている

広い園庭をはじけるように元気一杯に走り回る子どもたち。カラフルな建物と遊具、中でも子供たちお気に入りの「お屋根の付いた砂場」は、今日も満員御礼の大にぎわいです。

「いま園児は1学年で約16人、多い学年だと30人。0歳児から年長まで合わせて94人います」と遠藤和子所長。本助成では、被災地の保育所や小、中学校などいくつかの復旧を支援していますが、野田村保育所はそのひとつです。

野田村保育所は「園児全員が奇跡の脱出」と新聞に取り上げられた施設です。当時0から6歳の子どもたちを91人預かっていましたが、無事に全員が脱出できたのは、毎月きちんと防災訓練をおこない、職員が冷静に対応できたからです。

「新しい保育所は、以前より1キロメートル内陸で17メートル以上の高台へ移っていますので、津波の心配はもうありません。でも竜巻や火災などもしもの時、職員がきちっと対応できるように、いまも避難訓練は続けています」。

保育士にお話を伺うと「震災後、避難訓練をすると怖がる子どももいましたが、いまは大丈夫です。私も、自分が震災の日に着ていたエプロンをなかなか着ることができませんでした。あの時の様子がフラッシュバックしてしまって。でもここは安心して子どもたちを守れる場所ですから、いまはこうして普通に着用しています」と笑ってエプロンを見せてくれました。

震災後、被災した保育所は使えず、しばらくは閉鎖していた旧新山保育所を使用することに。しかし、この施設の定員は45人。震災後残った64人の子どもたちの保育をおこなうには狭過ぎ、遊具も満足にない状況でした。

「どんな環境でも子どもたちは、元気によく遊びます。大人だけだったら落ち込むことも多かったと思いますが、子どもたちの屈託ない笑顔に私たちはどれだけ救われたかわかりません」。

そんな子どもたちも次々とここを巣立ち、2012年度から数えると合計55名が卒園していきました。現在ひまわり組にいる子どもたちは、震災の年に生まれた子どもたちで、震災の記憶はありません。子どもたちに当時のことをどう伝えていくか、それも私たちの大切な役割のひとつだと遠藤所長は話しています。

今日も元気一杯に遊ぶ子どもたち。

陸前高田市, 保育園の移転、建設、遊具の購入など

若い人たちが子どもたちと一緒に故郷に帰って来るための環境を。

陸前高田市の竹駒保育園を訪ねると、子どもたちがかわいい歌声で歓迎してくれました。「うちの園児は、卒園後もここに遊びにきてくれる子が多いんですよ」とうれしそうに話すのは、いまは異動になった前園長の村上和加恵さん。2013年3月の竣工式の前日、ピカピカの新園舎で無事に卒園式をおこなうことができ、うれしそうにひとりひとりに卒園証書を手渡しされていた姿が思い出されます。

「卒園式の練習は、まだ建設中のためヘルメットをかぶってしかも1回だけ。子どもたちが工事のかたに、早くつくってくださいと話すと、子どもに言われると泣けてくると頑張っていただきました。卒園式をご覧になった親御さんが、竹駒に戻ってくることができてよかったと喜ばれていた姿も忘れられません」。

陸前高田には全部で10ヵ所の保育園がありましたが、まだひとつ開所できていない所があり、現在は9ヵ所です。竹駒保育園の新園長 坂下睦美さんは「ここは定員50名となっていますが、70名くらいは受け入れできる容量があります。問題は保育士の数が足りないことです。現在、保育士1人で対応できるのは、0歳児は3人、1歳2歳児は6人、3歳児は20人、4から5歳児は30人までとされています。でもそれに応じた人数の保育士さえいれば大丈夫かと言えば違います。園全体で、さらに保育士を2、3人多く雇っておかないと、休んだ時に対応できません」と話します。

「今年は、盛岡や花巻の保育士の学校を卒業した高田出身者を4人雇用しましたが、近くに住む場所を探すのも大変。アパートが建つという話しが流れると、あっという間にいっぱいになってしまいます」と坂下さん。

故郷に帰ってくるかたたちを迎え入れる体制が整い、地域みんなで子どもたちを育てていくことができたらと、おふたりは口を揃えます。

「バラバラに分かれて他の保育園に通っていた子どもたちが、新しい保育園に笑顔で戻って来た時は本当にうれしかった。それぞれの場所で多くのかたが、子どもたちの支えになっていただいたおかげで、心の痛手も少なく明るく過ごすことができたのだと感謝しています。子どもたちには苦労をかけましたが、みんな立派です」と村上さん。

もっとたくさんの子どもたちの歌声が、この町に響き渡る日が訪れるように。多くのかたが町の再生に努力を続けています。

みんな上手に歌えたかな。かわいい歌声で歓迎してくれた竹駒保育園の園児たち。

福島県

相馬市, 農業機械の購入など

借り受けた農地で大豆を栽培。いまや10アールで300キログラム採れる畑も

津波に、家、田畑、農業機械までも押し流されてしまった相馬市の農業生産者。塩害と風評被害に追い討ちをかけられ、農業再開を断念する者も。そんな中、地域の有志たちが農業法人を設立し、相馬市の農業再生に乗り出します。竹澤一敏社長が2人の仲間とともに立ち上げた(合)飯豊ファームもそのひとつです。

竹澤社長は、農家から土地を借り受け、塩害に強い大豆で新たな農業の道を切り拓こうと考えました。相馬市は本助成を使って農業機械を購入し、各法人に貸し出すことに。2012年におこなわれた農業機械交付式でズラリと並んだトラクターは壮観でした。

その後も大豆の種まき、収穫と取材を続けてきましたが、久しぶりにお会いした竹澤社長は以前にも増して元気一杯です。「あの笑顔の陰で、たくさんの苦労があったのだ」と、他の役員のかたが教えてくれました。

たとえば、借り受けた土地に10ヘクタール以上の大きな畑があり、いままでのやりかたでは通用しなかったこと。せっかく大豆を育てても人手も機械も追いつかず収穫が大変だったこと。さらに、収穫量が多すぎて管理する場所の確保に苦労したことなど、一歩進む度に新たな壁が出現。それでも各人が培ってきた経験とノウハウを活かし、いまでは約60ヘクタールの農地で大豆を育てています。収穫量も最初の年は10アールで約50キログラムと、県の平均の3分の1以下でしたが、いまでは多い畑だと10アールで300キログラムを収穫できるまでになりました。

「我々の活動も農家の間で認められ、飯豊ファームに任せたいと言う農家も増えてきました」と竹澤社長。仕事を見せてもらうため畑に向かうと、新しい3人の社員がトラクターで作業をおこなっていました。「彼らも経験を積むうちに段々と自信がついてきたようです。彼らに続き、故郷で農業をやりたいと言う人が増えてくることを期待しています」。そう話す竹澤社長は、また一段と元気な笑顔を見せてくれました。

白河市, 低温管理農業倉庫の建設など

どんなに素晴らしい提案も、自ら実践して、初めて人に伝わる

震災は、さらに内陸部にも様々な被害を与えています。白河市の福島県東西しらかわ農業協同組合は5つあった農業倉庫を地震で破壊されました。「我々を頼りにする農家のためにもなんとかしなければ」。そこで考えたのが、五つの倉庫を復旧するのではなく、東西ふたつのエリアにひとつずつ新倉庫を作り、集約管理する方法です。

「昨年は東部で30キログラム はいる米袋を約3万5000袋、西部で約5万1000袋を貯蔵しました。低温で管理できるようになりましたので、最初に出荷するお米も、12ヵ月経って出荷するお米も同じように美味しいと評価いただいています」と薄葉 功代表理事専務。

倉庫の入口には、放射能の全量検査ができる機械が導入されていますが、これだけのお米の量となると大変な作業に思えます。

「2ヵ所で集約して効率的に検査できますし、福島のお米の信頼を守るためなら苦になりません。私たちが目指すのは、仕事は大変だけど楽しいと心から思える農業の提案です。お米を中心に野菜や畜産など、この地域にしかできないことを広げていこうと工夫しています」。

そのひとつが肉牛の繁殖場。母牛を100頭購入し、生まれた子牛を育て出荷します。農協がこれをおこなうのは日本初の試みです。

「どんなに素晴らしいアイデアでも、自ら実践してこそ意味があると思います。あれをやれ、これはどうだと口だけで言っていてもダメ。現場で一緒になって動いていくことで、初めて参考にしてもらえると私たちは信じています」。

新入社員が3人増えた飯豊ファーム。仕事の充実感がその表情に現れている。

低温管理できる農業倉庫で大切に保管。安心、安全な福島のお米を全国へ出荷。

小野町, 公立小野町地方綜合病院の移転、新築、設備など

建物の力と人の力を合わせて、地域医療の中核病院へ

公立小野町地方綜合病院、以下、小野町病院は、1954年に小野町、田村市、平田村、川内村、いわき市の5市町村が出資して誕生した総合病院です。震災で旧館が受けたダメージは大きく、壁にクラックが走り、天井は落ち、壊れた配管の漏水が院内にあふれました。このままでは倒壊の危険もあると、移転、新築を計画。しかし、原形復旧が原則の国の支援を受けることはできないため、本助成を利用して2015年2月に新病院を完成させました。

新しい病院は、明るく清潔で開放的。震災の経験を活かし、災害時でも安定的な医療が提供できるように、ライフラインの多重化やトリアージスペースも確保した設計になっています。

「建物には力がある、というのは本当ですね」と口を揃えて話すのは、事務長兼総務課長の新田俊幸さんと副院長兼看護部長の坪井裕子さん。「病院新築の情報が伝わった途端に、若い看護師の応募が増え、昨年開院した時には、9名の新しい看護師を増員できました」。震災当時は人手が足りず、医師と看護師は何日も病院に泊まり込んで診療、看護にあたっていたと、おふたりから伺ったことを思い出します。

現在は、看護師59名、医師27名(常勤6名)の体制へ。医療機器、手術室、その他施設も一新しました。「旧病院では年に数回しかできなかった手術も、設備と医師が充実したことで可能になり、昨年は70人の手術をおこないました」と坪井さん。開設時に10科だった診療科も泌尿器科と形成外科を増やして12科へ。透析装置も3台増やして15台へと充実しています。以前は、透析治療のため、車で1時間以上かけて郡山の病院に通っていた患者さんも、近くの小野町病院を利用できるようになってひと安心です。

「これまで近隣のクリニックでは、MRI 検査が必要な患者さんには紹介状を書き、郡山まで検査におこなってもらっていましたが、当院で対応できるようにもなりました。大切なのは、地域医療の中核病院として、地元に貢献していくこと。移動に大変なお年寄りが安心して通院できるように送迎バスを出していますが、さらにこれまで運行がなかった地域に新たなルートを設け、送迎バスの増設をおこないます。次の目標は夜間、休日診療の再開に向け、常勤医師の増員を図ることです」と新田事務長。

現在、小野町病院は県や大学病院の要請で、地域医療の現場の研修施設としての役割も担うことになっています。これも設備の整った病院に生まれ変わったからこそ。ハードとソフトの両輪を充実し、地域のかたが求めるよりよい医療サービスを目指して改革を進める小野町病院には、震災前の3割近く患者数が増えています。

「これからは建物に負けないサービスを」と話す新田俊幸事務長と坪井裕子看護部長

「地域医療の中核病院としての役割をしっかりと果たしていきたい」と、藤井文夫企業長

相馬市, 海岸防災林の苗木開発、採種、育苗、植樹など

故郷再生の夢を次の世代へ。また1本新しい苗木を植える。

「みなさん、こうやって植えていくんですよ」。そんな呼びかけに応え、大人たちに混じって地元の子供たちが、小さな手でクロマツの苗木を、松川浦の海岸防災林造成地に1本1本植樹していきます。こうした植樹式は、震災後、地元の団体などにより、ずっと続けられています。

日本百景のひとつとして数えられていた松川浦は、海岸線に美しく続く松林とともに、河口に広がるあし原と肥沃な干潟が貴重な植物や野鳥の宝庫となっていました。そんな地元のかたの大切な憩いの場でもあった松川浦が震災で一変。100ヘクタール以上あった海岸防災林は、津波で押し流されてしまいました。「たとえ自分たちの代では実現できなくても、子ども、孫と受け継ぎながら、美しい故郷の象徴、松川浦を蘇らせたい」。この地元の願いに応え、緑地創造研究会が海岸防災林の再生支援計画を立て本助成に申請。 2014年4月11日、松川浦に適したクロマツを厳選し福島県林業研究センター内の採種園に植えました。以来ここで採種した種や苗木を地元の人たちに供給し、2015年8月には植樹祭も開催され、現在、松川浦の海岸防災林造成地で植林作業が続けられています。

この事業は、国内外の多くの団体や研究機関などが注目し、さまざまな形で支援をおこなっています。2015年6月におこなわれた NPO、企業などの合同植樹式では、ボランティア団体の交流会や今後海岸防災林の再生を継続しておこなうための会議も開かれました。立谷秀清相馬市長は「相馬市を離れてしまったかたが、故郷に戻れるように、住宅やインフラ整備などを進めています。なにより大切なのは、人と人とのつながり。この植樹事業のように、みんなで力を合わせていきましょう」と挨拶しました。

松川浦には、最終的に146万本近くの苗木が植樹される予定です。1本1本地道に植え続けられていくクロマツが、立派な防災林へと育つのは、いつの日でしょうか。私たちが植えた助成という名の苗木も、それぞれの地に根付き、人々に役立つ木へと日に日に成長しています。

立派な防災林へ、子どもたちが植えた苗木は地域みんなの手で大切に育てられていく

公益財団法人 ヤマト福祉財団 トップページへ戻ります
ヤマト福祉財団 NEWS の目次へ戻ります