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受賞者を訪ねて。

お互いに認め合うことから新しい発想が生まれる。

10月27日、精神障害者の雇用支援のための Web システム SPIS を開発した奥脇 学さんの会社を訪問しました。

有限会社奥進システム 代表取締役、公益社団法人全国重度障害者雇用事業所協会 常務理事。

奥脇 学さん。

略歴。

1968年
大阪市生まれ。
1986年
高校卒業後、株式会社日立西部ソフトウェア入社。
1998年
同社退社。自分の技術力を試し、労働環境を改善するために独立。
2000年
有限会社奥進システム設立 同社代表取締役就任。シングルマザーの支援施設や障害者支援施設を回り始める。
2006年
頸椎損傷による重度身体障害者、システム開発希望。大阪市職業リハビリセンターより紹介、採用。
2009年
ひとり親家庭の母親入社、週40時間勤務開始、うち週1日在宅。
2010年
内部障害(人工透析)者1名、精神障害者1名採用。
2012年
精神障害者1名、週35時間勤務で追加採用。精神障害者就労定着支援システム SPIS 提供開始。
2013年
精神障害者の就労継続支援健康評価システム事業に SPIS が採用。
2014年
大阪府の精神、発達障害者雇用管理普及事業に SPIS が採用。
2015年
発達障害者 1名、精神障害者1名、追加採用。
2016年
発達障害者 2名採用。

設立以来 WEB アプリケーションに特化して企業向けシステム開発を受託。延べ 220社に納入し、年商 6,400万円の実績をあげる。2016年11月現在、社員10名のうち8名が障害者、2名はシングルマザーとなっている。

SPIS.

自社の精神障害者の定着のため障害者本人が日々の体調、業務遂行状況、職場での人間関係などの状況を4段階指標化して記入し、会社の管理者、支援機関、家族がその情報を共有化し、対応するようにして定着を図る Web システムです。

そのノウハウを大阪府や、全国精神障害者就労支援事業所連合会などの事業として一般に公開し、職場定着に顕著な効果を上げており、精神障害者雇用未経験の企業でも安心して雇用できるようになりました。2016年8月末現在、50社100人が利用しており、今後もさらにこのシステム利用により我が国の精神障害者の雇用拡大が期待されています。

就労困難な人々が働きやすくなる会社をめざして独立。

有限会社奥進システムは、大阪市中央区で主に中小企業の業務管理システム、受発注システム、顧客管理システムを開発しています。一見ごく普通の会社のようにみえますが残業ゼロで、従業員10人中8人が障害者、2名が子育てや家事に追われて働きづらいシングルマザーという特徴があります。

「勤めていた会社から独立したときにそんな会社にしたいと思っていました。自分自身も夜遅くなったりしていたし、有能な女性でも結婚でやめていくところも見てきましたから」。

独立当初から、障害者施設なども訪ねて障害者とソフトウェアの業務の可能性を探っていたそうです。

重度身体障害者がシステム開発リーダーとして活躍する職場。

社内は、完全バリアフリーになっていて、ひとりひとり PC でプログラミングしています。見渡すと車椅子の社員が手に縛り付けたスティックでキーボードを操作していました。

質問:これはどんなシステムを作っているんですか。

「これは、受発注管理システムです。うちのシステムは、インターネットで動く web システムが特徴です。受発注は、離れたところとのやり取りなので、こんな業務ができます。これは企業間でも利用できるもので、アパレル関連だとメーカーさんの取り扱いアイテムもたくさんあるのですが、便利に使ってもらっています。遠隔で操作できるので使いかたの指導も私がやるときがあります」。

奥進システムでは、2名の重度身体障害者がシステム開発リーダーです。当初は2名とも在宅勤務が中心でしたが、今では出社する日のほうが多くなり、客先との打ち合わせもこなしているそうです。

お互いを認め合っていくことで働きやすくなった。

社員のみなさんに集まっていただき、それぞれの様子を説明していただきました。

「入社6年目で非定型精神障害です。何回か休職しながらも勤めさせてもらっています。今では様子をみんなが察知してくれるようになって安定してきています」。

「入社1年2ヵ月目です。私も精神障害です。発達障害もあります。就労移行支援事業所から実習に来て入社することになりました」。

「私も発達障害でそれまでは、市役所で働いていました。この会社では、システム開発の仕事ができるのがいいです」。

現在4名が、自分の状態を SPIS に日報入力をおこなっていて、お互いの体調が判るようになっています。

また、外部の就労支援者からもアドバイスがはいる仕組みとなっています。

「だれでもがフレキシブルに配慮してやっていける環境にしたいので、社内障害プレゼンをやっています。本人もカミングアウトしたほうが楽だし、周りもどうすればいいのか判りやすいです」。

だれもが認め合うという安心感が職場一杯に広がっていました。

受賞者を訪ねて。

生きていてよかったと思う日がみんな来る。だから。

自らの体験をとおして、障害者理解とともに、いじめ防止も呼びかける竹内昌彦さんの講演活動に同行しました。

社会福祉法人岡山ライトハウス 理事長。

竹内 昌彦さん。

略歴。

1945年2月
父親の赴任先中国天津で生まれる。
1951年4月
小学校1年入学。
1953年2月
網膜剥離により失明。
1954年4月
岡山県立岡山盲学校小学部3年編入。以後、同校中学部、高等部へ進学。
1964年11月
パラリンピック東京大会 盲人卓球、優勝。
1966年3月
岡山県立岡山盲学校高等部専攻科卒業。あん摩マッサージ指圧師免許、鍼師免許、灸師免許取得。
1966年4月
東京教育大学盲学校教員養成課程入学。
1968年3月
東京教育大学盲学校教員養成課程卒業。
1968年4月
岡山県立岡山盲学校教諭。
1999年4月
同校高等部教頭。
2005年3月
退職。

現在、社会福祉法人岡山ライトハウス 理事長、社会福祉法人岡山県視覚障害者協会 理事、岡山県立岡山盲学校 同窓会会長。

著書:病理学概論(教科書)、見えないから見えたもの(自分史)、船長の粋な話(エッセー)ほか。

竹内昌彦さんの功績。

2200回に上る講演の謝金や書籍売り上げ、映画上映会の収益を元に、発展途上国の視覚障害者が職を得て貧困から抜け出す仕組みを築いた功績により受賞となりました。

1. 講師謝金や自伝書に寄せられた募金などを元に、視覚障害者のための職業訓練学校などを2011年にモンゴル、また2015年キルギスにも設立した。モンゴルの学校については、2016年6月正式にモンゴル国営2年過程の専門学校として認定された。現在、70名の生徒が学んでいる。

2. 点字ブロックが世界で初めて敷設された岡山市郊外の交差点脇に、点字ブロック世界発祥の碑を建立。その後も点字ブロックを守る会の代表として、点字ブロックの歌やシール等を作成し、点字ブロックへの理解を深める活動を全国に向けて展開している。

3. 竹内氏 の活動に感銘を受けた岡山市内の一般市民が中心となり、著書、見えないから見えたものを、未来の子どもたちにもこの感動を受け継いでいきたい、と、構想から5年をかけて映画化。全国の小中学校の授業で使ってもらうことにより少しでもイジメや、自殺問題をなくしたい、との想いから、全国に向けて映画の普及活動をおこなっている。

4. 幾度となく訪問した発展途上国に僅かな治療費もないため、視覚障害のまま放置されている子どもたちが大勢いることに気付いた。その治療費を送ることで、彼らの視力を回復させる活動を開始した。既に、モンゴルで3名、キルギスで20名の子どもの視力を改善させることができた。2016年11月7日現在。

60年以上の見えない体験から語れることを。

10月26日、高松市高松東高等学校にて人権講演会が開催され、竹内さんが講師として登壇しました。先生に誘導されてゆっくりと演壇に向かう竹内さんを全校生徒が静かに見守ります。

竹内さんは、開口一番、「みなさんとは、まったく違う人生でした。両目がまったく見えない。こういう人生を60年以上経験してきました。この体験は、みなさん持っていない。この話だったらできる。今日は、呼んでいただいたので、喜んでお話ししますね」と語り始めました。

「目が見えないと何も怖くてできなくなる。そう思われると非常に残念です。人間、目玉のひとつやふたつ、壊れても、そうは諦めてなくていい。食事も普通にできます。ただ、ケーキやてんぷらなど、見た目でおいしそう、おいしくないは判りません。ですが、見えないほうがいい時もある。何が言いたいのかというと、人間、見た目だけでおいしい、まずいーつまり、良い悪いを判断するとときどき失敗するぞということなんです」。

差別の体験、そして、いじめと、命の大切さを呼びかけて。

竹内さんは、音声で知らせる時計や電卓、白杖などを取り出し、軽妙なジョークも交えて、視覚障害者が工夫して暮らしていることを説明した後、点字ブロックが視覚障害者にとって大切なものであり自転車などを点字ブロックの上に置かないでほしいと生徒に理解を求めました。

そして、自ら子どものころに受けた不条理ないじめを乗り越えた体験から、生徒に呼びかけました。

「自分ひとりの命ではない。お父さん、お母さんの命も抱えて生きている。命を絶ってしまっては、親は夢も希望も失います。一生続くと思うから絶望する。けれども、生きていてよかったと思う日がみんな来る。自分も今まで死にたいと思ったことが三度あったけど、やっぱり生きていてよかったと思う日がみんな来た」。

2200回以上の講演から生まれたもの。

自分の将来を見つめる高校生にとって、竹内さんの言葉はとても大きかったようです。

モンゴルのマッサージスクールやキルギスの視覚障害者リハビリテーションセンターの建設、貧困により手術を諦めていた視覚障害児の手術費用の肩代わり。竹内さんが手がけた支援は、すべて講演の謝金やご自身の半生を綴った書籍の売り上げ金で賄われました。

竹内さんの活動は、晴眼者と途上国の視覚障害者をつなぐ架け橋としてだけでなく、広く人生の過ごしかたを伝える活動として多くの人達にその感動を伝えつづけています。

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