知名度の低さ、資金不足、競技レベルの足踏み。障害者スポーツの悪循環を断ち切りたい。
世界のステージにいざ出陣。
本誌がちょうどみなさんの目に触れるころ、池田ブライアン雅貴さんは、アスリートとして障害者スポーツの祭典に出場。日本代表のひとりとして世界に挑みます。
いや、パラリンピックにはまだ早いよ、そう、いぶかしがるかたも多いかもしれません。池田さんが出場するのは、デフリンピック2017。4年に一度開催される夏季大会が、今年、黒海沿岸のトルコの都市、サムスンで開かれます。
障害者のための世界的な総合スポーツ競技会はパラリンピックだけではありません。身体障害者を対象としたパラリンピック。知的発達障害の選手が競うスペシャル オリンピックス。そして、デフリンピックは聴覚障害者のための大会です。パラリンピックよりもずっと長い歴史を持っています。
総勢177名の日本選手団の一員として池田さんが出場するのは、400メートル リレー走。走者4人がバトンをつなぐトラック種目です。
週5日は練習をしているという慶應義塾大学、日吉キャンパスの陸上競技施設を訪れ、パソコンの画面にテキストを打ち合ってお話を伺いました。
もっと知ってほしい、僕たちを。
「陸上競技を始めたのは小学3年生のとき。母の勧めでした。ハーフで、耳が悪いことが原因で、学校でいじめに遭うのではと心配していました。それで、何かひとつ得意なものがあればと考えたようです」。
先天性の感音性難聴に端を発し、幼少期に重度の聴覚障害となった池田さんにとって、運動は大の苦手。健常者との意思疎通に追われて、スポーツに目を向ける余裕もなく、体育の時間も先生の指示が聞き取れず、消極的だったといいます。
しかし、恩師とも言える顧問の先生と、中学に上がって出会うと一転、「陸上が好きになりました」。選手としての才能も一気に開花し、全国大会で3位となるまでに。高校ではインターハイに3年連続出場し、高校2年のときには400メートルで48秒04を記録。全国同学年の個人ランキング7位に食い込み、高校1年からは聴覚障害者の陸上競技会にも参加するようになりました。
「そこで聴覚障害者アスリートと接しているうちに、『記録や良い成績を残しても知名度が低いから、なかなか注目されず悔しい』という声を聞き、十分ではない環境の実態を知りました」。
彼自身、高校時代にデフリンピックの日本代表に選出されたものの、環境が整わず、出場を果たせなかった苦い経験を持っています。
目をそらさず、中退を決断。
2015年、彼は体育の教諭を目指し、晴れて東京の大学に進学しました。しかし、次第に自分が本当にするべきこと、そのために学ぶべきことはなにかと、あらためて見つめなおすようになります。同時に障害者スポーツや障害者アスリートを専門とする研究者が、あまりに少ないことも分かってきました。
「障害者の置かれている環境を、もっと社会に理解してもらいたい。でも問題の根はひとつではなく、さまざまな要素が絡み合った結果です。そこで、ひとつの領域にこだわらず様々な視点から学習し、研究したい気持ちが強くなりました」。
体育教諭とは異なる夢を描き始めた池田さんは、すっぱりと大学を中退し、新たに自分が学ぶにふさわしい場として、慶應義塾大学の総合政策学部を志望。 AO 入試出願までの期間も短く、苦労は相当のものだったようですが、「準備を重ねるうちに、漠然としていた将来のビジョンが、明確なものに変わったのでとてもよかったなと思います」。見事、秋には合格を果たし、翌年4月に入学。同大の競走部にも所属し、部の合宿所で学生生活を送っています。
全力疾走。それは成長の糧。
現在は、法律や憲法、行政、日本内外の経済や政治政策について勉強しているという池田さん。「グループで解決策を練り、プレゼンする形式の、社会保障政策の講義は特に興味深い」と、勉学にも熱がはいります。
いずれは、文部科学省に入省し、行政の立場から、聴覚障害者の置かれている環境の改善に関わっていきたい。
そんなビジョンを実現するために、社会関係を中心に学びつつ、障害者スポーツに関する研究会、ゼミにも参加する多忙な日々。競走部の練習もハードですが、「合宿所の生活は、みんなで助け合って、楽しいです」と画面に打ってくれました。
トルコのトラックを全力で駆け抜け、そのままの勢いで夢のバトンを未来につなげてほしい。池田さんにエールを送ります。