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花田春兆さんを偲んで。

平成29年5月13日に他界されました。

毎年12月に開催される、ヤマト福祉財団小倉昌男賞に欠かせない1シーンだった春兆さん贈呈の俳句。初めての作句は第3回の授賞式祝賀会の時でした。祝賀会会場で多くの関係者がおあつまりの中、春兆さんが即興で受賞者に向けて作句をしてくださいました。そして、第5回からは受賞者に贈呈する俳句として恒例となり、平成27年第16回で春兆さんが特別賞を受賞され、ご自身に贈られた、

生きて来し卆寿の幸を噛みしめよ:花田春兆、

が、ヤマト福祉財団小倉昌男賞での最後の句となりました。平成28年には受賞者に贈った俳句をまとめた句集 まほろば が発刊されました。花田春兆さんのご冥福を心よりお祈りいたします。

句集 まほろば の編集に関わり、春兆さんを介助し共に過ごしてこられた文筆家の坂部明浩さんに追悼の言葉をいただきました。

第16回ヤマト福祉財団小倉昌男賞で、春兆さんの受賞の挨拶を坂部さんが代読。

出会うべくして生まれた俳句。

介助、著述業、坂部 明浩。

ここ17年ほど、ご自宅と同じ港区の特養の個室で創作活動をされていた春兆さん。奥様に俳句の自信作をお見せするため、私がご自宅へ持参していたことがありました。特に年末の配達には、奥様の目につくよう、ヤマト授賞式でご披露した俳句が決まってトップに添えられていました。「いつもの坂部 便ですか」、「いや、今回はヤマト便だよ」と春兆さん。

さて、実際の授賞式に向けての作句の様子ですが、例えば、

雪の野を宝庫に変へし底力:春兆。

ここでの雪の野は受賞者の活動する北海道でのこと。春兆さんにとって、経験のない北海道の雪からどう表現を生み出すか。そんな時春兆さんは、大学の教え子たちの成人式で雪に見舞われた時のことを思い出し、それを北海道の雪の野に重ね合わせることで、やっと自身のこととして、雪の野の大変さを少しでも感じ取ることが出来たと仰られていました。

俳句を単に言葉の巧さだけで創るのではなく、少しでもその光景に近づこうというお気持ちがあるからこそ、底力という言葉が生まれたのだと思います。相手を思いやる努力を欠かされませんでした。

そして、何事にも継続を心掛けられた春兆さん。先の大学での授業は好評で数年続き、 OB 生も応援に。また光明学校仲間と始めた身障同人誌 しののめ は64年間、港区の仲間とは歌と踊りの集いを35年間続け、俳句誌、萬緑も終刊号まで立派に投句を果たされました。

人をユーモアで惹きこみ、相手を思いやり、それらを断固として継続する。まさに、社会的企業にとっても必須のこれらの要素を持たれていた春兆さんだからこそ、出会うべくして生まれたヤマトの俳句であったと思います。

そして毎冬恒例の色紙による俳句贈呈の場は、俳句の筆ペンでの清書や自作の解説文を、時によってはギリギリ納期を間に合わせることが出来ての、会場担当者のハラハラを織り込み済みの、会心の笑顔だったのです。

第15回ヤマト福祉財団小倉昌男賞で、北海道で世界品質のチーズを生産する農事組合法人共働学舎新得農場代表の宮嶋望さんに贈られた句。

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