避難されてきた多くの高齢者もケアできる体制へ
やっと町に戻れるようになっても、高齢者の医療、介護体制が整っていなければ安心してくらすことはできない。そんな住民の声に応え、急ぎ建設を進めてきたのが、南相馬市にある鹿島厚生病院併設介護老人保健施設、厚寿苑です。
南相馬市は、東日本大震災による津波被害および原発事故で、福島第一原子力発電所から30㎞の範囲の一部地域が帰還困難区域、居住制限区域、避難指示解除準備区域に指定され、指定外地域に位置する鹿島区には多くの被災者が避難してきました。そのため鹿島区の人口は高齢者を中心に震災前から約2000名も増加。その一方で、病院は16施設から9施設へ、老健施設も8施設から4施設へと減少し、相双地域全体の医療、介護環境、特に老健施設など介護施設の改善は急務となりました。そこで、鹿島厚生病院併設介護老人保健施設、厚寿苑を運営する福島県厚生農業協同組合連合会(以下、JA 福島厚生連)は、この助成金を活かして、地域医療、介護サービスの充実、強化のため施設増床を計画。2013年1月に起工式がおこなわれ、今年1月30日に竣工式を迎えました。
地域復興のシンボルとして南相馬市の希望の砦に
竣工式で JA 福島厚生連の庄條德一経営管理委員会会長は「高齢者医療、介護の充実を担う中核施設として、また地域振興のシンボルとなりたい」と挨拶。櫻井勝延南相馬市長は「厚寿苑は南相馬市の希望の砦です」と祝辞を述べました。
ここには最新の介護、療養、リハビリ設備などの他に、全室に感染防止を配慮したスーパー次亜水の空間噴霧方式も導入しています。渡邉善二郎施設長は「こんなに素晴しい施設を作っていただいたので、今後はスタッフの増員も図りながら、それに負けないサービスを実現したいと思います」と話しています。
当時は残った全スタッフが泊まり込みで高齢者をケア
2月1日の開所を前に、スタッフは、喜びと安堵の気持ちで一杯です。
「震災に襲われた時、私は通所されていた18名の方と一緒にいましたが、激しい地震にみなさん混乱状態になりました。なんとか平静に対処しようと、安全を確保してください、と呼びかける声も、つい大声になってしまったことを思い出します」と看護師の西内光枝さん。「とにかく全員を耐震構造となっているデイケアスペースへと一旦移動してもらい、そこから帰宅できるように順次車でお送りしました。でも、海沿いに住むかたは津波の恐れがあるため、道路を使えず、またここに戻ってくることになりました」と介護福祉士の青田浩二さん。入所されていたかた52人と合わせ60人近くのかたが、約1週間、ここで雑魚寝状態で過ごすことに。作業療法士の涌井美貴子さんは「おむつや薬などが不足してくると不安も募りました。当時、20名ほどのスタッフがいましたが、避難せざるを得ないスタッフもいて、残った者は当直を繰り返してケアにあたりました」と話します。
その後、利用者さんたちは、無事に被害の少なかった県南のみっつの施設に分散して避難。残ったのは、壁に亀裂がはいったり、床の一部が盛り上がるなど、このままでは使用できない状態となった施設でした。
自分自身がはいりたいと思う充実したサービスを
その後、避難が解除され、分散していた利用者さんも徐々に町に戻ってきました。しかし、急増した高齢者と減少した施設というギャップの中、旧施設の定員を遥かに上回る入所希望者が殺到しました。
「旧施設を改築してもキャパが少な過ぎる。新施設を建てるには、予算がない。そんな厳しい状況の中、助成が決まった時は、本当だろうかと驚きましたが、こうして立派な施設が完成し、心から感謝しています」と青砥正事務長は話します。
新施設は、これまでの58床から100床に拡充され、通所リハビリテーションの定員も1日20人から40人の2倍になります。
「全体に広々として、採光も配慮した快適な施設になりました。また旧施設は、病院をリフォームして建てられたもので、移動などで不便がありましたが、それもすべて改善されています」と青田さん。「リハビリ設備もより充実し、使い勝手も良くなっています。仮設住宅や借上住宅の生活によるストレスなどで認知症が進行するかたも出ていますので、その介護や予防にも頑張りたいです」と話す涌井さんは、訪問リハビリも行っています。「仮設住宅などでは自分のペースでゆっくり入浴することができません。新施設には、介護が必要なかたの機械浴室はもちろん、個浴室もありますので、のんびり寛いでいただければと思います」と西内さん。青砥事務長は「みなさんに楽しんでいただけるように、ここには地域のかたと入居者や通所者が交流できるスペースも設けています。30年、40年後に、自分がはいりたいと思える、そんな施設にしていきたいですね」と話しています。
被災地での生活は、高齢者はもちろん、家族の負担も大きく大変です。いま南相馬市では、約3人に1人が高齢者と言われ、新施設の入所待機者は306名にもなっています。
現在、順次利用者の入所受け入れを実施しており、新年度にはフル稼働になる予定です。
写真説明
オープニングのテープカット。内田和成東日本大震災復興支援選考委員会委員長、有富理事長
竣工式で挨拶する庄條德一経営管理委員会会長と櫻井勝延南相馬市長
入口エントランスに設置された竣功碑。震災の状況や助成への感謝の言葉が刻まれている
明るく快適に整えられた居室
日光浴もできる開放的な3階のテラス
機械浴室、個浴室を配備した入浴施設
厚寿苑を支えるスタッフ。左から西内光枝さん、青砥正事務長、市川聡さん、青田浩二さん、涌井美貴子さん
光がいっぱいに差し込む食堂
1階の広々としたリハビリテーション室
完成した厚寿苑を見学する内田選考委員会委員長、早稲田大学商学学術院教授と、有富理事長
工場も家も失ったが仮設水産加工団地で再出発
震災前、気仙沼魚市場は、生鮮カツオで全国一、他にもマグロやサンマ、サメ類などの水揚げも盛んでした。市場周辺や大川河口付近には、カツオの生利節、サンマ、サバ、イカなどの水産加工会社の工場が建ち並び、町の主力産業となっていました。ところが、その大半が津波に飲み込まれてしまいます。
自宅もろとも流され、工場を再建する資金などとても工面できない。そんな組合員の悲痛な声に、気仙沼水産加工業協同組合は、共同で作業できる仮設水産加工団地を計画。しかし、国や団体からの支援は建物だけでした。そこでこの助成を活用し、敷地内のインフラや内装工事、さらに組合員の設備、機材などの購入も進めます。バラバラになっていた組合員も次第に集まり、計9社が仮設水産加工団地で事業を再開。2012年9月、晴れて竣工式を迎えました。竣工式の様子と再開した5社の姿を以前本紙36号で紹介しましたが、今回は、その後にスタートしたよっつの会社について報告します。
有限会社マルナリ水産:工場も家も失ったが仮設水産加工団地で再出発
従業員を避難させ、一人工場に残った植木実社長は、逃げ遅れて津波に襲われました。なんとか自宅の屋根に登りましたが、家と一緒に3日間も流されました。周りの水が引かず、食糧も水もなく、服も濡れたままでもう限界でした。まさに九死に一生を得たものの、家も工場もすべて失うことに。地元の土産店、問屋などに納めるサンマの昆布巻の売上が伸びはじめ、これからという時でした。そのため仮設水産加工団地の話を聞いてもなかなか決心がつきません。「外で働いていた息子に、やるなら俺が手を貸すと言われたこと。また、地元の納品先からも、つくったら一生懸命売るから持ってこいと声をかけてもらえたのが後押しになりました。ただ資金集めが大変で、この助成がなかったらあきらめていたと思います」。
マルナリ水産が、工場を再開できたのは竣工式の3ヵ月後。工場は以前の約半分の規模になりました。
「従来通り仕事をおこなうには設備も足りず、昆布巻きを主力に方向転換しました。サンマの昆布巻である程度成功していましたから、これで第2弾、第3弾とバリエーションを増やしていくつもりです。中に入れる物もサンマだけではなくニシンやサケなど、気仙沼らしさを出せる商品にしたいと考えています」。
マルエイ千田商店:商品の種類を増やし、個人直販に専念しています
「いままでにない凄い揺れだったので、これは津波が来ると、女房と別々の車で避難しました。すでに道路は大渋滞でしたので、避難所と逆方向のホテルの駐車場に逃げ込みました。ところが女房の車が来ていない。慌てて周りの建物を探すと、魚市場の屋上にいる姿が見えてほっとしました」とマルエイ千田商店の千田裕さん。そこで津波が町を飲み込んでいく姿を目撃します。大川河口近くにあった工場は、跡形もなくなっていました。「しばらくは力も出なくてボーっと過ごしていました。仮設団地の話がなかったらどうなっていたか」と振り返ります。
事業を再開できた時は、震災から1年半が経ち、取引先だったスーパーなどにはすでに別の業者がはいっていました。「ほとんどゼロからの再スタートでした」と千田さん。震災前、個人直販の仕事が増えていましたが、そのお客様情報も津波で失ってしまいました。「住宅地図を見て、記憶を辿り、仕事を再開した案内を送りました。その甲斐あってお客様も少しずつ増え、いまうちの仕事の99パーセントを個人直販が占めています。商品は、サンマの南蛮漬け、サンマキムチなどをつくっていましたが、直販ならやっぱり種類が多い方が良いと、レパートリーを広げています」。
大弘水産株式会社:当たり前にあったもの、その大切さをヒシヒシと痛感
工場は、幹線道路から道を一本、はいった所でしたが、車両がはいれるようになったのは、震災から2ヵ月も後。「従業員と一緒にガレキをかき出し、使える備品を取り出し別の場所に移動して洗浄する、これの繰り返しでした」と小野寺大輔専務取締役。しかし、地盤沈下が発生したこの土地での再建は数年先も困難な状況に。「それでここに入居したのですが、今度は配管などの工事が進まず、周りからいつはじめるのと聞かれるのが辛かった」。業務を再開できたのは仮設水産加工団地で一番遅く、従業員も半数に減りました。
「それでも再開すると、当社の燻製ノウハウで、こんなものがつくれないかと新しい依頼をいただけました。この燻製品や〆サバ、ホッケ醤油味醂などは、問屋さんなども好意的に迎えてくれました。また給食関係の仕事も再開できています。こうしたお客様の存在はもちろん、いままで当たり前にあったものの大切さをヒシヒシと感じました。いまはお客様に満足いただける商品をつくることを一番に考え、盛り返していきたいと思います」。
有限会社林健商店:サケの削り節など新商品で少しでも販路を拡大したい
「グラグラっときて慌てて道路に出ると、とても立っていられない状況でした。四つん這いになりこらえていると、今度は液状化で側溝と側溝の間からパーッと水が吹き上がったんです」と林健商店の林孝輔代表取締役は話します。道路は渋滞して車での避難は無理だと、高台まで歩いて逃げ延びました。カツオ、サバの生利節製造を行っていた工場は、津波に流され、もうやめるしかないと落胆していた時に、仮設水産加工団地の話が届きます。
「うちはじいちゃんの代、昭和13年からやってましたから、頑張れる間は続けたいと思い参加しました。1年半のブランクと環境が変わったせいか、最初は思ったようにうまく製品をつくれず、つまずきながらの再出発でした」。お客様も仕事量も約半分に減っていますが、組合員同士で励まし合い、販路の拡大に挑んでいます。「サケの削り節やサメの心臓の燻製などをつくりはじめました。いまこの新商品を新しいお客様に卸し、販売してもらっています。これで、少しでも仕事が増えていったらと踏ん張っているところです」。
サケの削り節など新商品で少しでも販路を拡大したい
2013年7月、組合員が原料や商品を冷蔵保存できる新倉庫が完成しました。「仮設水産加工団地に助成いただいたお陰で、国や県、市などの援助を冷蔵倉庫や事務所などにまわすことができました。震災後、長期保管できる施設が足りず苦労してきた組合員にとって大きな一歩です」と気仙沼水産加工業協同組合の熊谷昌二常務理事は話します。必要な施設をひとつずつ整備しながら、気仙沼市の水産加工業は再生への道を進んでいます。
写真説明
昆布巻きをつくる植木社長
家族一丸となって事業を再開
商品は10種類から18種類に
まさにゼロからの再出発だったと千田さん
大弘水産のみなさん。写真右が小野寺専務
自社の特技を活かした商品を製造
林健商店のみなさん。中央が林さん
サメの心臓の燻製を試作
サバの生利節の出荷作業
衛生的で高品質に管理できる最新設備を導入した赤岩冷蔵工場
2014年1月27日、久慈市漁協は、第3次助成で2012年12月に完成、稼働していた製氷、貯氷施設をはじめ、17の施設の完成を祝う製氷保管施設等復旧支援事業竣工祝賀会を開催しました。久慈市漁協の さいかち健一郎代表理事組合長は「久慈で水揚げされる水産物の付加価値を高める製氷、貯氷施設など全17施設が無事に竣工しました。これを節目に、今後は漁業復興に邁進します」と挨拶。山内隆文久慈 当時市長も「地域活性化の要である水産業をみんなで盛り上げたい」と今後の決意を新たにしています。
写真説明
製氷能力1日50トン、貯氷能力約2000トンの製氷、貯氷施設