きっかけはメキシコ大統領の提唱
障害のある人に関わって、大きな出来事が出現した。過去をふり返り、また近未来を見渡しても、これほどの出来事はないように思う。それは、国連で定めた障害者権利条約(以下、権利条約)を日本が受け入れたことである。国際条約を国会承認を経て受け入れることを批准と言うが、2014年1月20日がその日となった。日本の障害分野の歴史にあって忘れることのできない記念日となろう。以下、権利条約についての経過や内容の特徴、政策上の効力、日本社会への影響について略述する。
本論に先立って、障害について考えてみたい。日本における障害者の数は、厚労省の最新データによると、約788万人である。全人口に占める割合は約6パーセント。ただし、この数は身体障害者、知的障害者、精神障害者のみで、難病や発達障害、脳血管障害などにある者の多くは含まれていない。ちなみに、WHO は障害者の数を全人口の15パーセントとし、米国は20パーセント、欧州連合 EU は15パーセントにしている。もはや少数層とは言い難く、欧米では障害のある人を指して最大のマイノリティーと称している。こうしたデータとは別に、高齢による障害を伴う確率はきわめて高く、そもそも人間は、最期の段階で例外なく障害をくぐることになる。そういう意味では障害の問題は人類共通のテーマと言ってよかろう。
最初に権利条約の経過と背景をふり返ってみたい。直接のきっかけは、2001年の第56回国連総会でのメキシコ大統領の障害者権利条約の制定の提唱であった。これを受けて、権利条約に関する特別委員会が設置され、公式な検討にはいっていった。特別委員会は8回にわたって開催され(1回当たりの会期は2週間から3週間)、2006年8月の第8回特別委員会での仮採択を経て、同年12月13日開催の第61回総会において本採択に至った。その背景には、障害分野の遅れを放置してはならないとする国際的な機運の高まりがあり、女性差別撤廃条約や子どもの権利条約など既存の人権条約の深部からの後押しがあったことを忘れてはならない。
あるべき社会への処方箋
25項目の前文と50箇条の本則から成る権利条約であるが、2点に絞って特色を述べたい。ひとつは、誕生までの過程に特筆すべきことがあったことである。通常、条約の策定作業は政府間交渉であり、民間がはいる余地はない。権利条約は異なっていた。述べ100日に及ぶ審議の過程にあって、重要なステージでの障害当事者、国際 NGO の代表の発言が確保された。Nothing About Us Without Us (私たち抜きに私たちのことを決めないで)は、国連の議場に染み入るようにくり返された。一貫して、条約の主体である障害者を審議の内側に据えていた。権利条約の価値の高さはこのことと無縁ではなさそうである。
今ひとつは、内容面で新たな地平を開いたことである。障害のとらえかたなどはその典型と言えよう。簡単に言えば、障害の本質は社会の側に存在するという立場を明確にしたことである。これまでは手足のマヒや目が見えないこと、耳が聞こえないなど個人に属する障害のみを問題としてきた。権利条約はこれを転換させ、障害と言うのは障害者を取り巻く環境要因、社会的障壁との関係で重くもなれば軽くもなるとした。まさに、障害観のパラダイムシフトである。また権利条約は障害者に対して新たな権利や特別な権利の付与という考え方を一切取っていない。もっぱらくり返しているのが他の者との平等(このフレーズは35回登場)で、同年齢の市民との平等性の追求をポイントにしているのである。
最後に、批准が成った条約の効力をどうみるか、また条約と日本社会との関係について触れておく。憲法には締結した条約は遵守するとあり、一般法律の上位に位置づけられることになる。条約が障害関連の法律を拘束し、条約の水準との関係が問われることになる。労働及び雇用、教育、生活など障害者に関するあらゆる分野で新たな目標値が設定されたと言ってよかろう。
かつて国連は、障害者をしめ出す社会は弱くもろいと言い放った。先の東日本大震災においては、障害者の死亡率が全住民の死亡率の2倍であることが判明した。まだまだ弱くもろいのがこの国なのである。権利条約は、一見して障害者のための条約と思われがちであるが、そうではない。障害者が住みよい社会は誰もが住みよい社会を切に訴えているのであり、あるべき社会への処方箋なのである。権利条約の浸透度、それはそのままこの国の人権意識のバロメータと言ってよかろう。