時は来た。待ち焦がれた船出.
県道をはさんで海の見えるベランダにはカウンターとイスが数脚。潮の香りが感じられるイートインスペースから目をこらせば、漁港の一角でイルカがジャンプしました。
紀伊半島の南部、ここ太地町は古式捕鯨の発祥の地。そんな漁師町に昨年12月オープンしたのが、いなほのパン屋です。
隣町の那智勝浦町で34年前から活動をつづける、いなほ作業所は、店舗を持たず移動販売を中心に学校給食やスーパーへの卸しに徹して、高い給料を実現させてきました。しかし、さらなる成長と給料アップを目指して、満を持して挑むのが初の店舗販売です。
「自前で出店してはどうか、という声はかねがね理事会から上がっていたんですが、なかなか実現できなくて。施設定員も一杯で、新たに利用者を受け入れるにも職域を拡大せにゃならん」と理事長の掛橋郁雄さん。「そうこうしているうちにこの土地を見つけて『よし、やってみるか』と」 出店資金の一部に当財団の助成が充てられました。
調査にじっくり足かけ2年.
なぜ、初のお店を太地町に開いたのでしょう。出店調査を担当したのが、現在は管理者の生熊映さんです。
「那智勝浦町にはパン屋さんがめちゃめちゃ多いんですよ。これは厳しいという話になり、人口割合なんかを調べてみると太地町が狙い目じゃないかと。何よりパン屋さんがないし、スーパーも漁協が経営する1店のみ。そこで太地町に絞って、交通量の多い道や学校周辺の土地を見て回りました」。
土地を探し始めたのは2013年の夏ぐらいから。金銭面で折り合わなかった物件もありましたが、人に訊いたり、自分たちの足で探し回るうちに見つけたのが、眺めの良いこの土地です。幸い、所有者も「使うてもろうたらいい」と快く応じてくれました。
開店初日は天候にも恵まれ大盛況。「歩いていける距離にこんなお店ができてうれしい」との声も聞け、その後の評判も上々です。
起死回生を招いた学校交流.
「パンというのは偶然の産物やったんです」。
今ではほとんどの収益をパンで稼ぎ出す、いなほ作業所ですが、きっかけはたまたまだったと語るのは前任の管理者の細野建治さん。
「無認可の時代が長かった、いなほ作業所 は1998年の法人化に際し、認可施設として授産種目を増やし、利用者の経済的自立をなんとか支えたいと考えていました」。
そこで試みたのが、配食サービスとクッキーの製造です。地元高齢者とネット販売で全国を相手にする計画でしたが、設備投資の甲斐なく、いずれも「ぽしゃりました」。
そんな折り、近くの小学校から、交流をしたいとの申し出が。企画として小学生といっしょに焼いたパンが、転機を呼び込みます。できたパンは誰もが予期せぬ美味しさ。これだったら給食用に注文したい、と、校長先生から提案が上がったのです。
「当時、僕らにはろくな技術も知識もなかったんですが引き受けました。でもそこから、これじゃいかんと勉強を始め、老舗のパン屋さんに1年間、指導を仰いだりして、今はおかげさまで、自信を持ってパンを販売できるようになりました」。
目下の目標は店舗売上1日平均3万円です。「そうすれば、給料が月3万を超えるはずなんです」と生熊さん。注文配達やお客様から要望の出ている営業時間の拡大といった方法で売上増を探りつつ、無理をしない形で広げていきたい。そう最後に展望を明かしてくれました。
紀州材を使ったぬくもりのある店内。壁の漆喰塗りもスタッフ総出で。
店の前が太地漁港。ベランダからはイルカが跳びはねる姿も見える。台風の多い土地柄にあった下見張りの外壁を採用した店舗。
防腐剤がはいっていなくて安くて美味しいと評判の いなほのパン。
「無認可の時代は一般的な内職を。1999年ころから事業がパンの製造に変わりました」と掛橋理事長。
「サンドイッチはもっと小さく切って、ひと口サイズで販売したほうがいいとか、利用者のお母さんからもアドバイスいただきます」と生熊さん。
ひょんなことからパン事業に踏み出した経緯を語る細野さん。
店舗を設計した熊野くらし工房の森岡茂夫さん。「地域の技術と材料を使って、文化を継承しながら地元に還元できるように考えました」。
簡単な飲み物のメニューも。
本日のお店担当の利用者さんとスタッフ。
那智勝浦町のいなほ作業所本部はパン製造の拠点。
現在、1日平均、菓子パン350個、食パン70斤、パンドミ35本を製造。