難聴に悩む子どもと保護者を、医師として支えるため、再度大学へ。
ヤマト福祉財団では、障害を乗り越え、社会のために貢献したい、と勉学に励む大学生に、月額5万円(返済不要)を助成しています。平成29年度は、12名を新たに選抜し、奨学金を贈りましたが、全国からの応募総数は、70名以上もありました。
「社会で活躍する奨学生たちの、成長した姿をお伝えすることで、多くのかたに、助成の意義をご理解いただき、もっとたくさんの学生を応援できるようになれば」。
今回お招きしたのは、平成22年度奨学生の吉田 翔さんと、平成27年度の奨学生 木戸 奏江さん。おふたりが大学に進学した目的、そこでなにを学び経験できたのか、そして、社会人となった、これからの夢などについて、瀬戸理事長が伺いました。
瀬戸 薫理事長(以下:理事長) 今日はお忙しい中、おあつまりいただいて、ありがとうございます。私は先日、おふたりの職場を訪問させていただきましたが、木戸さんと吉田さんは、初対面ですよね。まずは、自己紹介からはじめましょうか。
吉田 翔さん(以下:敬称略) 佐賀県から来ました吉田です。僕は先天性両耳難聴で、いまも両耳に補聴器を付けています。ずっとデフバレー、聴覚障害者のバレーボールをやってきて、聴覚障害者のオリンピックである、デフリンピックにも出場経験があります。大学は最初に、国立九州大学 医学部で臨床検査技師の資格を取りました。卒業後、さらに佐賀大学の医学部に進んだのですが、このとき、ヤマト福祉財団の奨学金を活用させていただいています。2年間の研修医を経て、4月からは長崎大学病院 耳鼻咽喉科、頭頸部外科の医師として勤務します。
理事長 いまもバレーボールを。
吉田 勉強が忙しくて。現在は、時おり大学で学生の指導をおこなう程度です。
理事長 医者の勉強は大変ですし、これから、ますますお忙しくなるでしょうからね。
木戸奏江さん(以下:敬称略) 私は、10歳の時に、進行性筋ジストロフィーと診断を受けました。健常者から、徐々に障害者になっていく中で、いろいろな悩みにぶつかり、障害者に関することを広く学びたいと、大阪府立大学 地域保健学 域教育福祉学類に進んだのです。その後、病気が進行し、20歳で車椅子を使うようになりました。そのため通学が困難になり、大学の近くに引っ越して、暮らすための資金として活用させていただきました。昨年4月から、車椅子を開発販売する WHILL 株式会社で働いています。
理事長 おふたりは、我々の人生の何倍も苦労しながら、大学に通われたわけですが、どのような目的を持って、進学されたのですか。
吉田 最初の九州大学では、臨床検査技師の勉強をしていましたが、明確に自分の将来に対する夢、目標は持っていなかったですね。
理事長 バレーボールばかりしていた。
吉田 はい(笑い)。それが4年生のときに、難聴の子どもたちの保護者に向けた講演会があり、私に講演の依頼がありました。そこで保護者から、いろいろな質問を受けたのです。どうやって話せるようになったのか、どんな勉強法をしてきたのか、耳が聞こえない仲間とのスポーツのことなど、質問は止まりません。保護者が、子どもの将来に不安を抱いていることが良くわかって、そのときから、私に医学知識があれば、より的確なアドバイスをおこなえるのに、と考えはじめたのです。
理事長 それで医者になろうと。
吉田 医師として耳が聞こえない人と、保護者のお役に立てるようになろう、と決心し、二浪の末、改めて大学に はいることができました。
車椅子の人への違和感。海外研修での、人生を変える気づき。
理事長 木戸さんはいかがですか。
木戸 私も最初は、障害について広く学びたいというだけで、どの点を掘り下げたいとか、どう活かしたいとかは、まだ考えていませんでした。ただ、在学中に病気が進行し、車椅子を使いはじめて、さらに、障害に対する疑問や違和感を持つことが増え、それを紐解くなにかを得たい、と強く思いはじめました。私が大きく変わったきっかけは、アメリカでの研修体験です。そこから、自分がこれから、どういうスタンスで生きていくのか、ヒントを得ることができました。
理事長 研修先はボストンでしたね。
木戸 はい。アジア系アメリカ人のスタディグループで、アイデンティティについて学んだことが大きかったです。車椅子に乗ってから、初対面のかたが、車椅子の人というイメージをとおして、私に接してくること、弱者として見られていることに違和感を抱いていました。スタディグループで、この違和感の正体がわかったのです。人はシチュエーションに合わせ、会社員、学生、女性、恋人、子ども、親など、様々な自分を持っています。でも、車椅子に乗り始めてから、どんなときも私は障害者であり、障害者以外の自分が失われていくような喪失感がありました。アメリカでは、障害者を他のマイノリティのかたたちと同じ、それぞれの個性、能力として捉えます。民族やルーツにバラエティがあり、多くの人々がマイノリティな一面を持っていることの表れでしょうか。車椅子に乗った障害者という一元的な見方ではなく、木戸という、私個人になにができるのか、できないのか、できるようにするには、どんなサポートが必要なのか、を考えさせられました。アメリカでの経験で、車椅子ユーザーが、いつも障害者でいることに違和感を持った私は、いかにして、車椅子ユーザーが、障害者イメージから脱していくかに興味を持つようになったのです。
吉田 世界を見ると考え方が変わる、それは凄く共感できます。アメリカと日本は、かなり考え方が違っていますよね。ボストンには、大学の留学制度を利用して行ったのですか。
木戸 いえ、違います。大学とは関係ない、短期フィールドワークの研修プログラムを、自分で探して申し込みました。ボストンは、アメリカの中でもバリアフリーが発展している都市で、交通機関などにも、細かな配慮が行き届いているんです。
理事長 ボストンには何度もおこなっているけれど、気がつかなかった。視点が違うんですね。
吉田 僕は、一昨年、デフリンピック出場権をかけた世界選手権でワシントン DC を訪れたとき、ある大学を見学したのですが、そこは手話などを含めた、聴覚障害について学ぶ大学なんです。日本からも学びにきている学生がいました。テレビで講義を視聴しましたが、すべて手話でおこなわれ、字幕も出してくれる、こんな大学もあるんだ、とびっくりしました。
木戸 アメリカはいろいろと進んでいますね。私は、この海外での体験で、私自身の障害への考え方が大きく変わり、これからは、車椅子に焦点を当てて勉強していこうと決めたのです。私は、自転車に乗る感覚で車椅子を利用していますが、周りはそうは見ていません。車椅子 イコール まったく歩けない障害者、そんな世の中の、車椅子への一面的なイメージを変え、移動体としての、車椅子の可能性を広げていけるような仕事に就きたい、と考えるようになりました。
理事長 大学でいろいろなことを学び、経験していくうちに、おふたりとも漠然としていた目的や夢が、具体的に変わっていったのですね。
どうサポートしてもらうと良いか。それを発信するのも僕らの役割。
理事長 おふたりが大学に かよい、勉強する上で、苦労してきたことはありますか。
吉田 講義が聞き取りづらく、どうカバーしていくかが大変でした。はっきり聞こえなかった点は、幾度も教科書を読み直し、とにかく単位を落とさないように、猛勉強しました。留年などしている余裕はありませんし、最新の医療知識を学び、医師の国家試験にパスしなければなりませんから。
理事長 講義の際に、ノートを取ってもらうなど、配慮をしてもらわなかったのですか。
吉田 学生時代は、自分が努力すれば良いのだと考えていて、周りに、なにかお願いしたりはしませんでした。しかし、インターンとなり、患者さんの命にかかわる仕事に就いたとき、聞こえなかった、ではすまされないのだと気づきました。カンファレンスでは、聞こえなかった点を、あとで同期の仲間に確認させてもらうようにしましたが、もどかしかったです。
理事長 同じことを何度も聞き直すと、なんだこの人は、となってしまう。
吉田 はい。私の場合、障害が見た目ではわかりませんから。私が4月から勤める長崎大学では、国立大学として、合理的配慮を進めていこうと、マイクのメーカーが、カンファレンスの際、私の補聴器にだけ、大きく音が届くシステムをテストしてくれています。オン、オフの操作は、補聴器のボタンで操作できます。しかし、手術中は触ることはできませんし、マスクもしているので、普段よりも聞き取りづらくなります。どうすれば聞こえやすくできるか、胸に付けるペンマイクタイプの集音機ならどうかなど、試行錯誤をしてくれています。こうしてもらえたら、動きやすい、聞こえやすい、そういったことを発信していくのも、僕らの大切な役目のひとつなのかもしれません。
自転車やクルマ感覚で楽しむ。そんな新しい車椅子を発信。
木戸 多くの、歩行に困難を持つかたがたは、できることなら車椅子に乗りたくない、と考えます。私も、車椅子に乗るという決心をするまで、葛藤がありましたし、覚悟が必要でした。車椅子に乗りたくない理由は、街中の段差など、物理的なバリアと、車椅子に乗っている自分の姿を人に見られたくない、といった心理的バリアの、ふたつの側面があります。物理的バリアに対する話題は、近年さまざまなところで取り上げられています。公共交通機関のバリアフリー化や、車椅子の性能向上などですね。しかし、心理的なバリアに関しては、あまり、まだ、注目されていないように思います。
理事長 WHILL という会社を初めて知ったとき、どう思いましたか。
木戸 WHILL の製品が最初に世に出たとき、あえて、車椅子と呼ばず、パーソナルモビリティである、と表現したことは、当時、大学生だった私にとって、大きな希望に思えました。今後、人生をともにしていくものが、障害者を象徴する車椅子ではなく、パーソナルモビリティとして、未来を象徴する乗り物になると感じたからです。それは同時に私が失っていた、障害者以外の自分を取り戻すことを意味していました。今後、製品自体が、社会の中でどう位置付けられていくかが重要だと感じ、私も WHILL が、今後発信していくメッセージに関わりたいと思い、この会社を選びました。
理事長 使い勝手のほうはどうですか。
木戸 当社の車椅子は、デザイン性はもちろん、機能も、これまでの車椅子とは違っています。パワーもあり、小まわりも効きますから、いままで無理だとあきらめていた場所や、お店にも、気軽に出かけることができます。お客様にインタビューをすることがよくありますが、 WHILL に乗ることによって、前向きな気持ちになった、外出する意欲が湧いた、といったお声をお聞きするのは、とても嬉しいです。障害者やお年寄りが仕方なく乗る、不便な乗り物ではなく、障害の有無に関係なく、誰もが乗りたくなるパーソナルモビリティ、それが当社の目指す、車椅子のイメージです。理事長は、当社製品 WHILL を試乗されていかがでしたか。
理事長 力を入れなくても、スッと動いてくれる。乗り心地は快適そのもので、これは凄いものができたな、と思いましたよ。
耳鼻科の専門医として腕を磨き、いつの日か故郷で開業したい。
理事長 吉田さんは、小児科か耳鼻科で迷っていたけれど、耳鼻科に進む決心をした。
吉田 自分のやれること、やりたいことを見つめ直し、耳鼻科を選びました。小児科の病気はジャンルが広く、患者さんも多岐にわたります。でも、耳鼻科に勤めれば、ひとりでも多く、難聴に悩むかたや、ご家族と向き合うことができ、僕のこれまでの経験を活かして、治療にあたることができると考えました。
理事長 体験からお話しされると説得力が違いますね。
吉田 たとえば、私は、いま、ふたつ補聴器を付けていますが、補聴器は子どもの頃から、片方の耳だけではなく、両耳に付けたほうが良いのです。付けていないと神経が衰えてしまいます。でも、私が両方に付けたのは、研修医として長崎大学病院に はいったとき、耳鼻科の専門医に勧められたからです。早く、そうしておけば良かった、と後悔しています。これも、私の経験からお話しできることのひとつです。
理事長 木戸さんも、いまの仕事に、ご自身の経験を活かせることはありますか。
木戸 社内で、当社の車椅子を利用しているのは私だけなんです。そこで、いろいろなタイプに試乗し、率直な感想を会社に伝えています。
理事長 木戸さんは、広報とマーケティング担当でしたね。
木戸 マーケティングは、もっと勉強しなければなりません。ホームページや、 PR 誌の編集にも携わっていますので、ユーザーとしての視点も、うまく活かしていきたい、と思っています。
理事長 ユーザーの意見はなによりも強い。きっと、開発にもプラスになると思いますし、これからが楽しみですね。吉田さんは、4月から働く長崎大学病院で、どのような医師になりたいとか、目標はありますか。
吉田 長崎大学病院の耳鼻咽喉科、頭頸部外科には、日本でも有数の先生がたがいらっしゃいます。まずは、多くを吸収し、専門医として、なんでもひとりでやれるようになることが当面の目標です。ここで腕を磨き、8年、9年かかるかもしれませんが、やがては佐賀県に戻りたい、と思っています。佐賀県にも優秀な耳鼻科の医師はいらっしゃいますが、県全体で、難聴や、発達障害に関わる医師は少ないのです。
理事長 故郷に恩返しをしたいと。
吉田 難聴は、見た目よりもつらい障害です。本人と保護者の両方に寄り添い、治療をしながら、佐賀県での、難聴者への理解を深めていきたい。そして、いつか開業もできたら、と夢を抱いています。
理事長 当財団では、ネパール小児白内障治療プロジェクトを支援しています。吉田さんには、佐賀県だけではなく、九州全土に、アジア全域へと、難聴への理解を広げてほしいですね。
吉田 そうなれたらと思います。
奨学生の中から、ヤマト福祉財団、小倉昌男賞受賞者が出てほしい。
理事長 私は小さいころ、小児麻痺で、両親がリハビリを続けてくれたおかげで、いま、マラソンなども楽しむことができています。おふたりは、ご両親や周りのかたに、どのような気持ちをいだいていますか。
吉田 いま、僕がこうしてしゃべることができるのは、両親が、他の人と同じような生活ができるようにさせたいと、幼い頃に、根気よく訓練をしてくれたからです。両親には、言葉で表現できないくらい、感謝しています。
木戸 私の病気は徐々に進行するもので、中学生ぐらいまでは、ちょっと足の悪い子どもぐらいにしか、両親は考えていませんでした。ですから、私を障害者として、あまり見てはいなくて、大学に行きたい、ひとり暮らしをしたい、海外留学がしたい、と話しても、いつも快く送り出してくれています。放任主義というか、そんな感じなのが、逆に助かっていますね。
理事長 心のうちでは心配だけど、やりたいことを存分にやらせてあげたいのですよ。
木戸 目に見えない所で、しっかりと支えてくれている、それは、私も強く感じています。
理事長 感謝の気持ちを心に刻んで、これからも楽しく仕事をしてください。そんな おふたりの姿が、このあとに続く奨学生たちの、良い励みになるはずです。
吉田 ありがとうございます。
理事長 おふたりには、他のかたにはない、当事者としての経験があります。それを活かして、吉田さん、木戸さんにしかできない仕事をしていただきたいですね。私たちは、毎年、障害のあるかたの雇用の拡大、労働環境の向上、高い給料の支給など、障害者の自立支援に著しく貢献したかたを選考し、ヤマト福祉財団 小倉昌男 賞をお贈りしています。いつかは奨学生の中から受賞者が誕生したら、素晴らしいなと期待しています。
吉田、木戸 それはハードルが高い(笑い)。でも、目標に向かって、頑張り続けたいと思います。
それぞれの経験を活かして、おふたりにしかできない仕事を。瀬戸 薫 理事長。
難聴は見た目以上に大変。専門医として寄り添いたい。吉田 翔 さん。
世の中の、車椅子へのイメージを変える。それが私の仕事です。木戸 奏江 さん。