幼くして向きあった大病。
「メーカーからアイティー、医療系や、コンサルティングまで。インターンシップは、数え切れないほど行きました」。
落ち着いた語り口が印象的な田島和弥さん。ハードな就職活動を乗り越え、3月に、大手電機メーカーグループのビートゥービービジネスを扱う事業会社の内定を得ました。
立ち居振る舞いからは、ご本人に伺わないかぎり、障害を微塵も想像させません。
小学6年生までカナダに暮らしていた田島さんは、3歳のとき突如、劇症肝炎に。お母様から肝臓の一部を譲りうける生体カン移植手術に臨みましたが、感染は骨髄にも転移し、再生不良性貧血で危篤に陥ったことも。奇跡的な回復まで、5年ほど、入退院を余儀なくされました。
「疲れやすかったり、体調にムラはありますが、今はもう一般的な運動もできます」。定期的な肝臓の検査と、免疫抑制剤は、この先も欠かせません。移植された臓器は、免疫からすれば、自分由来ではない、攻撃対象。拒絶反応を抑えるため、免疫の機能を下げるのが免疫抑制剤です。あえて防御能力を落とすわけですから、風邪などのちょっとした感染症でも重症化しやすく、日々の生活には注意も必要です。
山の上の小さな地球で学ぶ。
中学から宮崎に戻ってきた田島さんは日本語に不慣れで、国語の時間には相当苦労したとか。しかし、猛勉強でメキメキと上達。高校では「暗記力を身につけながら、日本の文化に触れようと思って入部した」百人一首部で、団体として全国大会に2度の出場も果たしました。
高校1年のときから、大学のオープンキャンパスに積極的に参加していたという田島さん。
現在通う、立命館アジア太平洋大学(エーピーユー)は、とくに惹かれた大学の一つでした。
「カナダはモザイク文化で、いろいろな文化、国籍や背景を持った方々が、一つの絵を作るみたいなところがあります。
エーピーユーは100を超える国、地域から留学生が来ているので、たくさんの言語が聞こえてくる、小さな地球のようなキャンパスです。多様性に溢れ、目的意識を持って能動的に物事に挑戦していく先輩がたの姿勢に刺激を受けて、私も、このような環境に進みたいと思ったんです」。
新型コロナが猛威を振るう中での受験。罹患すれば重症化は避けられず、都会への進学はドクターストップがかかったこともあり、別府の町並みと海を望む高台に構えるキャンパスで、国際的なビジネススクール認証も得ているエーピーユーに進学しました。
実践力を磨く日々。
田島さんの学ぶ国際経営学部では、ビジネス課題について解決策を提案にまとめ上げるといった授業が数多くあり、非常に鍛えられたと言います。
その集大成が、「4年間の学びを総動員して、企業が実際に直面するビジネス課題の解決策を考え、競う、キャップストーンという授業です」。
キャップストーンとはピラミッドの頂上に置く石のこと。転じて、総仕上げにあたる、教育プログラムを意味します。
自身も含め、国内学生3人、国際学生5人のチームで挑んだ課題は、インバウンド向けの新規旅行商品。100枚以上のスライドを作成してプレゼンに臨みました。旅行業、最大手の担当者も審査に加わり、学生36チームの提案に、厳しい目が光りました。
「実現性を重視した企画内容には高い評価をいただいたんですけど、残念ながら最優秀には選ばれませんでした」。
忙しい学業の合間を縫って、田島さんは2つの学生団体に参加しています。一つは、卒業生と在学生の交流を促す活動をしている、ルーパスという団体。
もう一つが大学の事務局と連携して、オープンキャンパスを企画運営しているジーエーエスエスという団体です。
「ジーエーエスエスは企画段階から主体的に動き、当日もエーピーユーの顔として、最前線で、ライ学者に大学の魅力を伝えます。私は2年生のときから、学生や保護者の相談に乗る業務を担当しています」。
当たり前を、より良いへ。
当財団の奨学金は、インターンシップや、就職活動の旅費に充てたという田島さん。おかげで、挑戦することに注力できた、と大きく感謝しています。
田島さんにはカナダでの体験に根ざしたビジョンがあります。
「いつかは移植や、入院している子どもたちを励ますボランティア団体を日本でも立ち上げたい」。
就職活動でもこのビジョンを明かしました。就職先は、理解を示してくれた人事担当者のいた大手メーカー系に決めました。
就職活動では障害への配慮が乏しい企業の存在も垣間見れたと言います。自分の障害を理解してもらうことに苦心もしました。
「結局は正直、素直に伝えるしかないなと思います。障害や、帰国子女について、広い視野で受け入れてくれる人が周囲には多くいて、自分は恵まれていました。
社会基盤を支える事業に取り組む就職先で、これまでの当たり前を、より良いものに変えていく役割を、私も頑張りたい。そして、力を蓄えたいと思っています」。