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巻頭企画。ヤマト福祉財団の原点に立ち返る。

初代理事長、小倉昌男氏が、私たちに託した思いとは。

ヤマト福祉財団の初代理事長 小倉昌男氏が逝去されて21年。いまや、ヤマトグループ各社での世代交代は進み、ベテラン社員でも、小倉昌男氏と言葉を交わしたことがないかたばかりに。なかには名前しか知らないかたもいます。今回、お集まりいただいたのは、当財団が障害者福祉への支援活動をどう進めていくか、などの基軸を、小倉昌男氏と二人三脚で築かれた、きょうされん専務理事の藤井克徳さん。そして、小倉昌男氏が、ヤマト運輸の社長当時、秘書を務められた、岡本和宏さんです。書籍などには記されていない、おふたりしか知らない、小倉昌男氏とのエピソードなども交え、存分に語っていただきました。

等身大の小倉昌男氏に、長年寄り添い続けた、おふたり

山内理事長(以下、理事長):本日は、お忙しい中、ありがとうございます。おふたりは、当財団の初代理事長の小倉昌男さんと、長年、行動を共にし、私たちが知り得ないお人柄や、エピソードなどもよくご存知です。それを、ぜひ、ざっくばらんにお話しいただいて、小倉昌男とはこういう人だったこんな思いを込めて当財団を開設したさらに未来に託した願いなども、読者のみなさんにお伝えし、共有することができたらと考えています。

見る人の立場で、イメージがまったく違う人だった。

岡本和宏さん(以下、岡本):私は、小倉さんがヤマト運輸の社長を務められていたとき、11年間、秘書として、ずっとそばにいました。でも、財団を設立された当時の話などは、あまり詳しくありません。

理事長:長年、秘書を務められてきた岡本さんしか知り得ない人間、小倉昌男をぜひ語ってください。

岡本:そういうことでしたら、お話ししたいことはたくさんあります(笑い)。小倉さんから受ける印象というのは、その人の立場によって、まったく変わると思うんです。例えば、宅急便のネットワーク構築を開始しようとしたとき、路線免許を出さないのは行政の怠慢だ、と、運輸大臣を提訴したでしょう。マスコミはこぞって、小倉さんは強面の人だ、と報道したけど、私は、小倉さんの近くにいて、違う面をたくさん見て来ました。私にとっては、優しくて、とてもユーモアのある人という印象が強いです。

障害のある人のために、なんにでも使ってください。

藤井克徳さん(以下、藤井):私も、最初にお会いしたとき、報道とはイメージがまったく違うと驚きました。

理事長:財団が設立して2年ぐらいしたあと、藤井さんと出会ったと聞いています。

藤井:私と小倉さんの本格的な出会いは、1995年の阪神淡路大震災です。この震災で、小規模作業所と呼ばれていた無認可作業所が、30数ヵ所も壊滅状態になりました。私たちは大阪に前線基地を設けて、毎日、支援に入っていましたが、そこに突然、高田さんせいさんが現れたんです。

岡本:高田さんせいさんは、財団を設立する際、小倉さんが、日本トラック協会から、本財団の常務理事にスカウトされたかたで、まさに信頼する相棒という存在でした。

藤井:その高田さんが、「これは、小倉から託された小切手です。どうぞ、何にでも使ってください」と、300万円も置いていかれたんです。震災では、いろんな財団から寄付をいただきましたが、この備品を買ってほしいとか、使途は全部限定されていました。

理事長:目的が指定されていたと。

藤井:何でも構わないと言われたのは初めてで、ひょっとしたら何か魂胆があるのかもしれない、と当時の副理事長が不安に思い、私に相談して来たんです。それで高田さんに連絡し、「このお金を本当にもらっていいんでしょうか」と確認しました。すると、「何に使ってもいいから、とにかく障害のある人を助けてあげてほしい」と伝えられ、思わず感動しました。

理事長:藤井さんたちなら信頼できる、と見抜かれていたのでしょう。

岡本:震災という非常事態だから、どうぞご自由に、って、小倉さんのポリシーを象徴していますね。

君たちは福祉で、私は経営で、互いに世の中に役立つことを。

藤井:とにかく、直接お礼を言いたい、と私は、震災から3ヵ月ほどして、財団を訪ねたのですが、小倉さんは、私と会うために結構長い時間を取ってくれていたのです。

そのときは、「今回の震災で、私は小規模作業所というものを初めて知った。何か応援をしたいが、福祉のことは、精通している君たちがやったほうがうまくいく。では、自分にできることは何かないか。事業所の経営についてだったら、何かできるかもしれない」と、話されたんです。

岡本:小倉さんは、餅は餅屋だという考え方を持っていました。だから、経営のことなら俺の出番だ、と考えたんじゃないでしょうか。

理事長:自分の持っているものを世の中に活かしたい、役に立てることは何でもやっていきたい、っていう想いは、ヤマト運輸そのもののありかたあい通じますね。

藤井:さらに驚いたのは、動きの速さです。既に、小倉さんの中にはセミナー構想があったとは思うんですけど、その年の秋には、全国の福祉事業所に声をかけて、2泊3日のパワーアップセミナーの実現に向けて段取りするように、と指示を受けました。

理事長:宅急便と同じように、こうと決めたら迅速に動く、そこがまた小倉さんらしいところですね。

講演で飛び出した、「やればわかる」の名言。

藤井:小倉さんは、日本中の会場に足を運び、講演をされました。私は、きっとヤマトの経営展開や、足跡とか、宅急便の話をするのだろうと想像していたんですが、そんな話は一切出てきません。話されたのは、自分の経営の基本姿勢だけです。

理事長:ご自身の功績には触れず、考え方などを伝えた、と。

藤井:その中でしきりに言われたのが、「やればわかる」という名言です。セミナーのあと、「藤井君は理解できた?」って問いながら、こう教えてくれました。「要するに、とにかくやってみること。成功したら、自分の立場に自信を持てる。だが、もっといいのは失敗することだ。むしろそのほうが、学びは大きい。やらないことが一番ダメだ。やれば、どっちに転がっても、結果が出てきて、それが自分の血肉になっていくんだよ」と。これを、うまいこと言いながら話されたのを、今でも鮮明に覚えています。

理事長:小倉さんの経営哲学にも通じるお話だと思います。

人知れず頑張っている者、若い人への思いやり。

藤井:セミナー開催準備でも忘れられないエピソードがあります。小倉さんは、宿泊型のセミナーにしないと本当のお付き合いは深まらない、と言うんです。しかも、参加者の宿泊先を、よりグレードの高いホテルに、夕食も一流シェフの料理にしたい、とメニューをひとつひとつ確認するほどでした。私が、これでは予算をオーバーしてしまう、と話すと、日頃、我慢し、苦労して頑張っている職員さんたちを労ってあげたいじゃないか、とガンとして譲りませんでした。

岡本:私がニューヨーク支社に勤務していた時期があるのですが、当時、社長になられたばかりの小倉さんが、出張でニューヨークに来られました。

理事長:宅急便のヒントを得るための渡米ですね。

岡本:そこで宅急便を成功する確信を得た小倉さんは上機嫌になり、マンハッタンに食事に行こう、と私たちを誘ってくれました。でも、レストランに着くと、支社長に、君は帰っていいよ、と言い出して、若い私たち社員だけで、小倉さんと食事をする羽目になったんです。

藤井:羽目ですか(笑い)。

岡本:小倉さんはにっこり笑うと、「だって、上司がいたらさ、言いたいことも言えないだろ」って。そういう気遣いをしていただけるかたでした。

理事長:私も、他の社員も、厳しい経営者としてのイメージが強いですよ。だから、エレベーターが開いて、小倉さんが乗っていると、誰も乗ろうとしない(笑い)。

岡本:その雰囲気は、ニューヨーク支社から帰って来てわかりました。私は、戻ったばかりで知り合いが少なく、ひとりで食堂にいたんです。それに気づいた小倉さんが、「おっ、岡本くん、帰って来たか」と、気さくに声をかけてくださって。そしたら、誰だこいつは、と周りに警戒されてしまいました。

障害のある人たちの現実を見て、スイッチがはいった。

藤井:とにかくヒューマニズムにあふれた、正義感の強いかたでしたね。

理事長:それを実感されたのは?

藤井:小倉さんに、障害者福祉の現場を見にいきたい、と言われ、都内の作業所や、僕がかつて勤務していた特別支援学校を回ったときです。

岡本:小倉さんは、現場主義の人。本当の知識を得るには、現場から、と徹底されていました。

藤井:「この作業所では、いくら、お給料を出しているの?」と聞くので、1万数千円です、と答えました。すると、「1日に?」と聞き返すので、月々ですと伝えると、えーっ、と考え込んでしまって。そこでスイッチが入ったみたいなんです。

理事長:それが、1万円からの脱却、につながっていったわけですね。

藤井:また、小倉さんは、精神病院を見て、ものすごくショックを受けていました。精神障害のあるかたが、鉄格子のある部屋に閉じ込められ、ジャラジャラと鍵を持った職員が、病棟の鍵をかけてまわる。

理事長:閉鎖病棟ですね。

藤井:それが、模範となる国立精神神経医療研究センターであることに、とても驚かれたのです。この点でも、心を揺さぶられたに違いありません。

モラルに反することは許さない。経営者としても正義を貫く人。

理事長:正義感の強さは、経営としての気質にも現れていましたね。

岡本:人や、商業道徳の道を踏みはずす行動は、絶対に許さないかたでした。社長になられた当時、現場は、ある百貨店の担当者から、いつも無理難題を押しつけられていた。それを知り、これは商業道徳に反する、とそれまで経営の柱であった、その配送業務から撤退することを決意したんです。小倉さんは、先代から言われたことも、理にかなわないことは絶対受けないという人でした。

理事長:現場を第一に考えるかたでしたからね。常にお客様が喜ぶことを考えなさい、と教えられました。

岡本:ただ、いま考えると、当時は宅急便が軌道に乗り掛けた時期で、それに一本化していくチャンスだ、と考えられていたのかも。一番の儲けガシラを切ることで、背水の陣で、宅急便に賭ける雰囲気を社内に作ろうとしたのかもしれません。

理事長:そうですね、小倉さんは本質を見抜く力をお持ちでしたし、そこから生まれる、ひらめきを大切にされていた。理論的、かつ、大胆に判断を下すかたでしたからね。

岡本:でもね、経営者にとって一番大切な資質は、ネアカなことだ、とも話していましたよ。ネアカな人は、世の中をプラス思考で考えるので、成功する人が多いんだそうです。だから、経営者はネアカでなくてはいけないと。

理事長:そんな小倉さんの哲学を綴られた、『小倉昌男、経営学』は、いまも経済界で長く愛読されています。

藤井:でも最初は、本は書かない、って嫌がっていたんですよ。

理事長:そうだったんですか。形に残していただいて良かった。私たちには、いまも、軸がぶれないための大切な羅針盤となっています。

意外なお茶目な一面も。自分をひけらかしはしなかった。

藤井:小倉さんは好奇心旺盛で、多彩なかたでもありました。義太夫や、文楽にも関心があり、藤井君は目が見えないけど、全部聞けばわかるから、と自身が出演された新橋演舞場にも誘っていただきました。後日、感想を聞かれ、そこでも義太夫をうなるなど、お茶目な側面もありました。

岡本:じつはね、秘書課の伝説っていうのがあるんです。ある日、小倉さんが女性秘書に、「明日、テレビの取材が入ったから、君もテレビに映ると思うよ」と、伝えた。彼女は急いで美容院にいって、張り切って出社したわけです。ところが、取材なんてなかった。その日は4月1日だったんです。以来、エイプリイルフールが近づくと、秘書課の連中は、今年は誰が犠牲者だ、って身構えていたそうなんですよ。

理事長:他にも、何か、意外な一面を伝えるエピソードはありますか?

藤井:パワーアップセミナーでは、日中の講演のあと、夜には、ホテルの一室に有志が集まり、自主勉強会を開くのが通例でした。そこに小倉さんは、浴衣姿で参加されるんです。あるときは、受講生を誘ってカラオケにったときもあります。カラオケは好きなようで、東京でも何度かご一緒しました。十八番は、「有楽町で会いましょう」でした。

岡本:フランク永井ですね。今の若い人は知らないでしょうけど(笑い)。私が思い出すのは、晩年、小倉さんが高齢者施設に入られた、と聞き、スワンベーカリーのパンを持って、お見舞いにったときのことです。

理事長:岡本さんは秘書を務められたあと、スワンで、販売などの業務に就かれていましたね。

岡本:赤坂店には、小倉さんにお世話になった創設時からのメンバーもいたので、一緒に出かけたんです。成長した姿を見てもらいたくてね。小倉さんはとても喜んでくれて、施設の皆さんにパンを配り始めました。私たちも一緒に配りながら、みなさんと話をしたんですけど、誰も、小倉さんがヤマト運輸の社長だった、とは知らなかったんです。

藤井:ご自身の功績とかをひけらかしたりしないかたでしたね。障害者福祉に頑張って来たかたに、財団から賞を贈ろう、となったときのことです。今でこそ、小倉昌男賞、とその名を冠していますが、当時、私たちは、小倉さんの名前をれた賞にしよう、と言ったのですが、かたくなに拒否されました。それで、最初は、ヤマト福祉財団賞になったんです。

理事長:そんな経緯があったんですか。価値観の軸が、じつにはっきりされたかたでしたね。

小倉昌男氏が、これからのヤマト福祉財団に願うこととは。

理事長:本財団の活動も30年を越えましたが、もしも、小倉さんが目の前にいたら、何と言われるだろうか、とふと考えることがあります。おふたりはどう思われますか。

藤井:財団のおもな目的は、障害のあるかたが働き、高い給料を得て、社会的に自立することにあります。福祉事業所では、生産性を上げるため、ライン化なども進めていますが、そればかりで良いのでしょうか。小倉さんは、障害の重いかたたちのことをもっと勉強したい、と話していましたが、課題にしたまま亡くなられてしまいました。これは日本中が、いえ、人類が解決すべきテーマかと、私は思っています。

岡本:小倉さんは、全財産を投じてヤマト福祉財団を設立されましたが、その理事長職を、運輸省の役人や、ヤマト運輸の役員などの天下りポストに絶対してはいけない、と話していました。それは、誰のための、何のための財団なのかを見失ってほしくないからだと思うのです。山内理事長は、おそらく、小倉さんと直接触れ合うことができた最後の世代だと思います。今後も小倉昌男のスピリッツを継承し続けるのは大変だと思いますが、決して忘れないでほしい。それをお伝えしないと、小倉さんにあの世で会わせる顔がない、と今日はやって来たんですよ(笑い)。

理事長:小倉さんが、ヤマトグループを辞められるとき、変わるべきものと、変わらべからざるものがある、と話されました。時代とともにいろんなものが変わっていくけれど、世のためになること、人のためになること、会社は社会の公器なんだから、そこをぶらさないでほしい、と。そんな小倉さんの意志を、ヤマト福祉財団もしっかりと継承し続けていくつもりです。障害がある人も、ない人も、みんなが幸せになっていく。その基本は変わらずにつないでいかなければならない、そう改めて痛感しています。

岡本:それを聞いて安心しました。小倉さんのお話でしたら、いつでも喜んでお伝えに伺いますからね。

藤井:まだまだエピソードはたくさんあります。

理事長:ぜひまたお願いします。そのときは、フランク永井でも一緒に歌いましょう(笑い)。

左から、元ヤマト運輸社長秘書、岡本和宏さん。きょうされん専務理事、藤井克徳さん。山内雅喜、ヤマト福祉財団理事長。

障害者施設経営学入門、と題したオープニング講演。2003年。

開会の挨拶をする、右の高田さんせい常務理事。2001年。

セミナー夕食会場で。

シンポジウムコーディネーターの、左の藤井さんと、右の小倉理事長。

私が入社できたのは、小倉さんのおかげです。

岡本さん。

私が、ヤマト運輸の採用面接を受けたとき、つい熱くなり、当時の国際政治について、持論を延々と展開してしまったんです。面接官たちは、みんな呆れ顔になり、ギロリと睨みつける人も。あっ、これはダメだ、落ちてしまった、と思いました。でも、その中にいた、若くてハンサムなかただけは、ニコニコと笑って、聞いてくれていたんです。入社したあとに、それが小倉さんだ、とやっと気付き、心の中で深く感謝しました。

私の目を治したい、と、渡米費も用意してくれていた。

藤井さん。

私の目がどんどん悪化していったとき、小倉さんは、何とか治す方法がないか、といろいろ調べてくれたみたいなんです。でも、私の目の病気は、医学上ではどうにもならないものでした。高田さんせいさんから、「アメリカで手術をすることはできないの? 小倉さんは、相当、お金をかけるつもりだよ」と言われ、思わず涙が溢れました。そこまで真剣に思ってくれているんだ、と本当に嬉しかったです。

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