ヤマト福祉財団 小倉昌男賞の贈呈

第5回 受賞された方々


ヤマト福祉財団賞

天野 貴彦さん 町田市障がい者就労・生活支援センター らいむセンター長
天野 貴彦さん

推薦者:小川 久江さん(町田市障害児者を守る会)

【推薦理由】
天野氏は、学生時代から町田市の障害のある人たちの社会教育活動である「青年学級」の活動に参加し、昭和59年大学卒業と同時に、「かたつむりの家共同作業所」の第一号職員になりました。天野氏は、障害のある人たちとその家族・関係者の共同で無認可作業所を設立するという町田市になかったスタイルを築き、それ以降、町田市には次々と共同作業所が誕生していきました。
また「かたつむりの家」の法人化を契機に、平成5年には「あじさい共同作業所」を開設しました。「あじさい」は、脳血管障害等により職業と社会生活の手段を失った在宅の中途障害のある人たちの働く場として開設しました。中途障害のある人たちの共同作業所は、当時は都内でも少なく町田市でははじめての試みでした。毎年入所希望が増加し、平成11年には「あじさい第2共同作業所」、その翌年の12年には「Cスクエアあじさい」を開設しました。この「Cスクエアあじさい」の設立は、これまでの共同作業所とは異なり、より高い工賃の保障をめざし、配食サービスにとりくみました。「Cスクエア」の事業を思い立ったきっかけは、「社会的に価値のある仕事をし、経済的に家庭を支えることで、築いてきた生きる自信をある日突然失ってしまった人たちに、もう一度『働きがいある仕事』『生きがいある人生』を取り戻してもらいたい、そのためには、『サービスの受け手から担い手に』、『生活実感につながる給与の保障』が必要」という思いからでした。「Cスクエア」は、開設後1年間で月額3万円の給与を実現し、平成15年には月額5万円を達成しました。また「Cスクエア」では企業就労への支援も重視し、トライアル雇用や企業実習にとりくみ、一般就労を実現した人たちもいます。
そして天野氏は、平成16年には、「Cスクエア」の実績を基盤に、[町田市障がい者就労・生活支援センター」を開設し、共同作業所と一般企業の架け橋をつくりだす事業に着手しています。天野氏の先駆的な活動は、多くの障害のある人たちに心強い励ましとなり、「これからこの子たちは、どうなってしまうのだろう」という不安を抱える家族たちに対して、心強い勇気を与えてくれます。
こうした天野氏の実績とひたむきな姿勢に対して、天野貴彦氏を「ヤマト福祉財団賞」の侯補者として推薦いたします。

ヤマト福祉財団賞

松村 茂利さん 大阪うどん「つくし」店長
松村 茂利さん

推薦者:富永 亞彦さん(社会福祉法人 千代田区社会福祉協議会事務局長)

【推薦理由】
候補者として推薦する松村茂利さんは、知的障がい者が教育の機会を等しく享受できる実践の場を求め、不登校やひきこもりを繰り返す児童と正面から向き合い、苦楽をともにできる知的障がい者フリースクールでの教員の道を選択された。しかし、人との信頼関係の改善ができた生徒も、フリースクール卒業後就労の道を閉ざされ、自信喪失と人間不信に再び陥るという厳しい現実を突きつけられ、この繰り返しのむなしさをいやがうえにも味わさせられることとなった。
そこで松村さんはこの実情を打開するための最善の方策として、全く未知の世界である飲食業界での生活の道を選択することを決心したのである。そして、協働の仲間となる障がい者をともない、本物の味を創り提供することをモットーとし、大阪に赴いてうどんづくりの訓練所で修行し、本物の技術を修めた。
平成11年、松村さんは私財を投じて都心に店舗「大阪うどん つくし」を構え、ひきこもりを繰り返す知的障がい者のための就労による社会参加の場づくりに着手することになった。昨今の経済不況の中、店の経営は厳しい状況ではあるが、松村さんの並々ならぬ障がい者たちの自立支援への熱意と、地域住民や在勤者ならびに当社会福祉協議会等の支援により、着実な歩みをすすめている。知的障がい者たちはこの店で働くようになってから、仕事で認められることで再び自信をとりもどし、明るい笑顔があふれるようになった。その笑顔と働くことでハンディキャップを克服していく真摯な姿などが衆人の知るところとなり、多くのマスコミ等の共感を呼び、その反響がもたらした支援の輪は、さらに広がりを見せている。
障害のある子どもが将来に希望をもち、本人、家族、地域、関係機関等が就労に向けて努力し協力しあうことができる社会の実現をめざし、労苦をともにするこれら障がい者の協働生活の場づくりがさらに発展することを願い、「つくし」での就労機会を待ち望む多くの障がい者の希望がかなえられることを祈念し、松村茂利さんをヤマト福祉財団賞候補者として推薦する次第であります。

財団賞特別賞

秋元 波留夫先生 秋元 波留夫先生

20世紀の振幅のほぼ全域を生き抜いてきた秋元波留夫先生であるが、本年めでたく白寿を迎えた(先生は、1906(明治39)年1月29日生まれ)。的確でヒューマニズムに溢れる言動は、まるで若人の振舞いのような錯覚に陥ることさえある。最大の業績は、わが国における精神医学、精神医療への貢献ということになろう。1929年に東京帝国大学医学部を卒業し、以来75年にわたって精神科医として、その大道を歩んでこられた。東京大学医学部教授、国立武蔵療養所(現在の国立精神・神経センター)所長、都立松沢病院院長などの要職の足跡が、そのまま業績の分厚さと広がりを物語っている。
そんな先生が、障害のある人びとのための共同作業所と出逢ったのが1970年代半ばのことであった。国立武蔵療養所所長時代に、東京都小平市に産声を上げたばかりの「あさやけ作業所」の強力なサポーターとなった。以来、共同作業所づくり運動にエネルギーを傾注することになるのである。
現在は、きょうされん(旧称:共同作業所全国連絡会)顧問として、また都内の3つの社会福祉法人(あさやけ作業所、府中共同作業所、リサイクル洗びんセンターの各グループ)の理事長を務めている。おざなりの理事会運営にはことさら厳しく臨み、実質論議を重視する姿勢は一貫して変わっていない。精神科医の多くが、大学や医療機関内にのみ身を沈めがちであるのと比べて、実に稀有な存在ということになろう。
先生をして、こんなキーワードで言い表すことができる。それは「好奇心」と「正義感」である。好奇心の旺盛さは並大抵のものではない。圧巻だったのは、米寿(88歳)にしてパソコンに挑戦したことだ。今では5台を駆使し、原稿書きやEメール、インターネットにと操っている。好奇心の強さが成せる業といえよう。正義感も卓越している。あの「帝銀事件」の真相解明に深いこだわりを抱いていることはよく知られているところであり、これ以外にもいくつかの人権に関連した裁判に関与している。
先生の好物は肉料理。ちょっとしたステーキなら簡単に平らげてしまう。また、若い頃も今も睡眠時間はたっぷりととっているという。先生の快活な秘訣は、このへんに潜んでいるのかもしれない。

財団賞特別賞

調 一興さん 社会福祉法人東京コロニーおよび社団法人ゼンコロ 名誉会長
調 一興(しらべ かずおき)さん

「障がい者運動のリーダー」、調 一興さんにはこのフレーズが実によく似合っていた。2002年に日本障害者協議会の代表を勇退するまでの半世紀、一貫して障がい者運動に身を捧げてきたのであった。鋭く本質を突きながら、それでいて人情味と楽天性を忘れない人柄は、障害当事者など仲間うちのみならず、行政関係者を含めた広い層から好感と信頼が寄せられていた。今に継がれている障害分野に関する政策課題の多くは、調さんの提唱によるものが少なくない。
そんな調さんも、最初から障がい者運動を専門としてきたわけではなかった。先ず手がけたのが、結核回復者のための働く場づくりであった。東京都中野区に「ガリ版印刷業」を創設、1959年のことだった。元祖無認可作業所といえるものかもしれない。その後、結核回復者対象の働く場による全国コロニー協会(社団法人ゼンコロの前身)や全国授産施設協議会(現在の全国社会就労センター協議会)の結成に、いずれも中心的な役割を果たしてきた。
調さんのモットーは、徹底した当事者中心主義にあり、障害のない人との協業と強力な生産手段(装置)を導入することであった。これによって高い生産性を実現してきたのである。また、早い段階から全ての障害を授産施設の対象とすべきであることを主張し、自らの現場においても実践してきた。今にして輝きを失わないこうした実践観は、引き続き関係者に無言のメッセージを送り続けている。
海外に視野を広げ、国際交流に力を注いできたのも調さんのもう一つの顔である。1974年以来、欧米との往復は15回余に及ぶ。障がい者政策の理念や就労政策の仕組み、所得保障制度の水準、障害の定義・認定制度のあり方等々、数々の機関資料をわが国に持ち込んだのである。アジアとの交流も怠らなかった。少なくない東南アジアの研修生が、こんな話を残していった。「言葉は通じなかったけれど、日本人の中で調さんが最も印象に残った」と。人となりを端的に言い当てている。
潜水艦の乗員として迎えた終戦、昨日までが一体何であったのか、日本はどこに向かっていくのか、自分はどう生きるべきか…、若き魂を悩ませたという。人権と生命への厳格なこだわりと平和をこよなく愛する調さんの原点は、このへんにあるのではなかろうか。