第20回 ヤマト福祉財団小倉昌男賞 受賞された方々ヤマト福祉財団小倉昌男賞
ヤマト福祉財団 小倉昌男賞
田川 精二さん
- 特定非営利活動法人 大阪精神障害者就労支援ネットワーク 理事長
【略歴】
- 1951年 大阪府堺市生まれ
- 1976年 大阪大学医学部医学科卒業
- 1979年 奈良県立医科大学助手
- 1980年 八戸ノ里クリニック勤務
- 1989年 くすの木クリニック開設(院長)
現在に至る
【現 職】
くすの木クリニック院長(大阪府・大東市)
【関係役職】
NPO大阪精神障害者就労支援ネットワーク理事長
厚労省「障害者雇用促進制度における障害者の範囲等の在り方に関する研究会」委員(H24)
厚労省「これからの精神保健医療福祉のあり方に関する検討会」委員(H28-H29)
など
【著作、論文など】
- 「 街角のセフティーネット」メンタルヘルスライブラリー25 高木、岩尾編 批評社・・「精神障害者の就労支援」
- 精神科臨床サービス(星和書店) Vol.11 No.3 2011年7月「はじめての精神科診療所」
- 精神神経学雑誌 Vol.116 No.6 2014年6月「精神障害者就労支援からみえてくるもの~ 精神科医療は何を目指すのか~」など
【推薦者】關 宏之さん
社会福祉法人日本ライトハウス 常務理事
<はじめに>
私は縁あって「大阪市職業リハビリテーションセンター」の創設にかかわり、知的障害の人たちの職業訓練、重度の障害のある人達の在宅勤務、手指機能を失った 方々のコンピュータ操作、就労を支えるために地域の施設や機関によるネットワークの構築など、閉塞的な職業訓練機関にはない新しいアプローチを試みていた。
こんな折、大東市が主催する「地域リハビリテーション祭り」で田川氏に運命的な出会いをした。1989年頃のことである。 大東市は、1980年に福祉事務所内に理学療法課を設置し、名実ともに地域リハビリテーション(CBR:Communitybased Rehabilitation)を標榜し、実践したわが国の一大拠点であった。毎年開催される「お祭り」では最後に決まってシンポジウムが組まれ、私は「地域精神科医療の専門家」である田川氏と隣合わせに座った。彼は、「働くことが最高の治療なんだ」と説き、不肖私は「就労支援の専門家」としてネットワーク構築の重要性を説いた。
田川氏の根拠とするところは患者さんへのアンケート調査に基づいている。調査では、8割の方が「働きたい」という希望を持っておられることが分かった。古典的には、「精神の病という大変な仕事を背負っているのだから、働かなくてもよいのでは…」というのが通例だったが、1999年頃にアメリカのロスアンジェルスのヴィレッジの考え方を学び、「ハイリスク・ハイサポート」という就労支援につながる考え方や手法に触発されたと語る。
私は、1996年3月に「大阪を障害者雇用日本一のまちに!」を標榜して、「大阪障害者雇用支援ネットワーク」を立ち上げた。当初の9施設はおおかたが知的障害のある人の就労支援を行っていたが、そのメンバーに精神障害のある人の就労支援を行っている「やおき福祉会」の北山守典氏がいた。田川氏と私は、これまた一直線の西南学院大学の舘 暁夫先生を交えて盛大なシンポジウムを数回もった。その北山氏の余命を知らされた田川氏も私も尊敬する北山氏に対する「はなむけ」として「ヤマト福祉財団小倉昌男賞」へ推薦状を書いた。2010年に「ヤマト福祉財団小倉昌男賞」を受賞された。
<「精神障害者の働き続ける」を支援するJSN>
当時大阪精神科診療所協会で理事を務めていた田川氏は同僚の若き精神科医有志と勉強会を重ね、自立支援法の施行を機に、2007年5月21日を期して精神障害者の就労支援に特化したNPO法人「大阪精神障害者就労支援ネットワーク」設立の決意を固めた。このNPOは、精神障害者への就労支援にこだわった事業を展開すること、役員14名のうち8名が精神科診療所の医師であること、精神科の知見と就労支援という価値観を共有する組織であること、医療の専門家としての医師は現場の就労支援員のサポートに徹すること(直接利用者にはアドバイスしない)など暗黙の了解事項とした。
田川氏は、創立以来、旧弊の医学界にあって、JSN理事長として対外業務や経営、職員への技術指導、全国的な啓発活動の重責を担ってきた。正に東奔西走の日々である。
<jsnの実績>
「精神障害者の働き続ける」を支援するJSN</jsnの実績>
2007年に門真から始まった就労支援事業所は、年を追って茨木に2か所、新大阪2か所、2年前には東京にも開設し、6事業所でおおよそ60名のスタッフが支援活動を展開し、日々140名の利用者が通所している。年間、60名近くが一般企業に就職している。就職者数は、開所以来12年で450名以上となり、JSNで訓練を受けた方の約90%が就職し、12年間で70%の方が同じ職場で継続して就労しており、「働き続ける」ことが実現できている。
田川氏は、厚労省「障害者雇用促進制度における障害者の範囲等の在り方に関する研究会」委員や「精神障害者に対する医療の提供を確保するための指針等に 関する検討会」委員として、精神・発達障害者を正式に法定雇用率に加えることや、精神障害者の地域生活をサポートするための医療制度についても、積極的に政策提言されてきた。
<おわりに>
「精神障害者の働き続ける」を支援するJSN
田川氏の講義を何度もお聞きした。聴衆からの質問に対して、「それについては私もよくわからんのですよ」などと申し訳なさそうに答えられる。それがまた多くの人達を魅了した。私自身も田川氏の細やかなお心配りの恩恵に浴して何度も絶句した。若い人たちが進んでJSNの一員に加わりたいと願うわけである。
いろいろな人を晴れ舞台に誘った田川氏ですが、今度は、田川氏自身がその舞台に立って欲しいと願うのであります。
ヤマト福祉財団 小倉昌男賞
廣田 しづえ
- 公益社団法人大阪聴力障害者協会副会長
【略歴】
- 1955年 愛知県豊橋市生まれ
- 1957年 原因不明で失聴
- 1977年 東海ろうあ連盟青年部委員長、全日本ろうあ連盟青年部中央委員、
- 愛知県聴覚障害者協会青年部役員、豊橋市聴覚障害者協会役員就任
- 1979年 結婚のため和歌山県和歌山市へ転居
- 1981年 和歌山県聴覚障害者協会婦人部役員就任
- 1983年 和歌山市立今福保育所保護者会役員、和歌山県立和歌山ろう学校PTA役員就任
- 1991年 株式会社和歌山近鉄百貨店・経理課財務係就職
- 1993年 大阪府大阪市へ転居、積水ハウス株式会社・販促部就職
- 1994年 社団法人大阪聴力障害者協会評議員、婦人部代議員、大阪市聴言障害者協会組織部、
- 婦人部役員、大阪市住吉区聴言障害者協会役員就任
- 1995年 阪神大震災後の疲労により腰痛発作があり退職。職業安定所でホームヘルパーの資格を知り
- 職業訓練校への入校を申し込むも断られ、大阪聴力障害者協会として交渉。
- 1997年 ヘルパー1級の資格を取得し大阪ろうあ会館ろうあ者訪問家庭指導事業(平成12年訪問介護事業)
- ・登録ホームヘルパーとして就職。
- 1998年 第2回全国聴覚障害者福祉研究交流集会ホームヘルパー自主交流会代表
- 2001年 大阪ろうあ会館訪問介護員派遣事業担当者として聴覚障害者ホームヘルパー養成カリキュラム策定委員就任
- 2003年 全国ろうあヘルパー連絡協議会を正式に設立し代表就任
- 2004年 ホームヘルパーとして訪問したろうあ高齢者の現状を改善するため、障害者ディサービス事業の担当者となる。
- 2008年 大阪ろうあ会館・在宅支援課・地域活動支援センター支援員
- 2009年 大阪ろうあ会館在宅支援課(平成29年介護支援課)地域活動支援センター(平成22年管理責任者)主任
- 2015年 公益社団法人大阪聴力障害者協会常任理事就任
- 2018年 大阪市聴言障害者協会会長、公益社団法人大阪聴力障害者協会副会長、
- 大阪市障害者施策推進協議会委員、一般財団法人大阪市身体障害者団体協議会副会長 就任
現在に至る
【推薦者】 石野 富志三郎さん
廣田しづえ氏は、それまでほとんど存在しなかった「ろうあ者(聴覚障害者)へルパー」という職種を確立させ、当時就職もなかなか難しいと言われていたろうあ者、特にろうあ女性の職域拡大を推進した立役者です。その実行力また後進指導に心血を注ぐ姿から「ろうあ者ヘルパーの母」として周囲から慕われています。
<功績1>「ろうあ者(聴覚障害者)ヘルパー」職種の創出
「手話でコミュニケーションがとれるホームヘルパー」を必要としている人たちがいます。それはろうあ高齢者です。ろうあ高齢者の多くは、かつて自らの言語である手話を否定され、口話教育を強制されてきました。社会から疎外され、障害故に結婚しこどもを産むことも叶わず一人で生きてきた人、中には強制的に不妊手術を受けさせられた人もいます。そのような環境下のため、単身かつコミュニケーションカが十分でないろうあ高齢者も多く存在しています。
そこで廣田氏はホームヘルパー1級を取得し、ホームヘルパーとして働く傍ら、自分が属している社団法人大阪聴力障害者協会女性部に働きかけ、「めざすヘルパーを語る会」を開催し、ろうあ者のホームヘルパー資格取得と就労の拡大が必要であると呼びかけました。
1997年10月、廣田氏の勤務先である社団法人大阪聴力障害者協会(大阪ろうあ会館)は、ろうあ者家庭訪問事業の実施を開始しました。2000年4月介護保険制度施行と同時に、社団法人大阪聴力障害者協会(大阪ろうあ会館)では本格的に訪問介護事業を開始します。「ろうあ者(聴覚障害者)ホームヘルパー」という職種が正式に形となった年でした。
<功績2>ろうあ者(聴覚障害者)ヘルパーの養成・資格取得の拡大
廣田氏は自身の経験から、ホームヘルパー講習会での情報保障の重要性を訴えてきました。しかし当時、資格の取得を目的とする講習会は手話通訳者派遣の対象外としている自治体が多く、そのためろうあ者は自分が働くために必要な資格をなかなか取得できないという状況でした。そこで廣田氏は大阪府と交渉し、1997年に大阪府のホームヘルパー養成講座に手話通訳を配置することに成功、ろうあ者の受講も2名枠で認められました。
しかし、これだけでは必要なろうあ者ホームヘルパー数の確保は困難であったため、再び大阪府に交渉し、大阪府による「ろうあヘルパー養成講座」の開催を実現させました。この事業は定員30名で5年間続き、ここから多くのろうあヘルパーが誕生しました。
<功績3>ろうあ女性の職域拡大とエンパワーメント
大阪での動きに刺激を受けた全国のろうあ女性が、地域のホームヘルパー養成講座で手話サークルの手話通訳や手話通訳派遣制度を利用して、次々と資格を取得していきました。
廣田氏は、大阪聴力障害者協会で始まったろうあ者ホームヘルパー事業に従事する中で、ろうあ者が主体となって介護保険事業所を立ち上げ、ヘルパー派遣事業を担っていくことの必要性を感じました。そこで、経験で得たそのノウハウを、後述の「全国ろうあヘルパー連絡協議会」 等の研修会や機関紙を通じて丁寧に説き、学習会を重ねることで全国に広めていきます。研修会で得た情報や学んだ知識で、ろうあ者ホームヘルパー自身が地元に戻り、聴覚障害者協会に情報を提供する等して事業を起こすように働きかけをしていきました。
この結果、聴覚障害者関係団体が主体となった、ミニデイサービス、地域活動支援センター、就労継続B型、グループホーム等の事業が全国各地で立ち上がりました。まさに、専門職として社会に位置したことで自信をつけたろうあ女性が今度は自ら事業を立ち上げ、また就労の拡大に結び付くというエンパワーメント効果をもたらしたのです。
<功績4>ろうあ者(聴覚障害者)ヘルパーの全国組織化
新しい職城を周囲にも認められるようになった全国各地のろうあ者ホームヘルパーは、廣田氏の元で団結し、2003年11月に「全国ろうあヘルパー連絡協議会」を結成しました。ろう者のホームヘルパーとしては初めての全国組織であり、廣田氏は結成当初から現在に至るまで代表を務め、会員は、現在23都道府県に170名(2018年度)います。
全国のろうあヘルパー、またはヘルパーを志すろうあ者が集まり、研修、訪問介護事業の発展と質の向上、就労拡大を目的として活動しています。
<最後に>
2016年に障害者差別解消法が成立しましたが、まだまだ見えない差別が根強く存在しています。課題も多く残る中、ろうあ者のホームヘルパーたちの地位、労働保障がまだまだ低いことも含めて、「継続は力なり」をモットーに、全国各地でろうあ者が安心して暮らすことのできる社会づくりにその役割を見つけ、果たせるよう、廣田氏は現在も努力を惜しむことなく活動を続けています。