ヤマト福祉財団 小倉昌男賞

亀井 勝さん

亀井 勝さん

  • 社会福祉法人 ひびき福祉会 理事長

【略歴】

1937年 大阪市生まれ
1977年 ひびき共同作業所(無認可小規模作業所)開設
1984年 社会福祉法人 知的障害者授産施設ひびき作業所施設長
1987年 全国社会福祉協議会中央セルプセンター推進委員
1991年 全国社会福祉協議会全国社会就労センター協議員
1993年 全国社会福祉協議会中央セルプセンター事業推進副委員長・大阪府授産事業振興センター推進協議会会長および推進委員長
1997年 大阪府社会福祉協議会セルプ部会部会長
2001年 全国社会福祉協議会全国社会就労センター事業推進委員長
2003年 定年退職に伴い全役職を辞して社会福祉法人ひびき福祉会理事長に就任し現在に至る

【推薦者】 松廣屋 慎二さん
(社会福祉法人 大阪府社会福祉協議会 会長)

【推薦理由】
 亀井勝氏は、1997年6月に、現在のひびき福祉会の母体となる無認可作業所を東大阪市に開設して以来、現在までの29年4ヶ月の長期にわたり施設運営に携わり、障害者の就労保障と自立を勧めるために献身的に努力をされてこられました。
 当時大阪には、無認可小規模作業所は4〜5箇所ぐらいしかなく、全国的にも愛知県の「ゆたか作業所」をはじめとして、障害のある人たちとその家族が地域の人たちとともに作業所づくりを開始していこうとしていた時期でした。大阪府や東大阪市との折衝や、施設用地や資金の確保、関係者との話し合い等、苦労をされた結果、1984年1月には、厚生省から社会福祉法人ひびき福祉会として認可され同年の4月からは、亀井勝氏は知的障害者授産施設ひびき作業所の施設長に就任され、今まで以上に障害者の就労と自立を保障する仕事の先頭に立って活躍されてきました。
 現在では、ひびき福祉会は通所施設、分譲施設、グループホームなどを含め10箇所の施設を運営する大阪でも大きな社会福祉法人であり、大阪の作業所運動、障害者運動の中核的な法人としての役割を果たされています。
 また亀井勝氏は、中央授産事業振興センター(現日本セルプセンター)の副委員長、事業推進委員長、総務、財政、広報委員長、常任協議員等の役職を歴任され、全国の授産事業の振興と発展のために尽くされました。
 大阪府社会福祉協議会では、1999年4月に成人施設部会から分かれて、授産施設の部会であるセルプ部会が創設され、それまで成人施設部会副部会長であった亀井勝氏が、初代セルプ部会長に就任し、大阪の授産事業の進行と発展に大きく貢献されました。
 また、1998年から大阪府社会福祉協議会が、大阪府の委託事業として受託している大阪府授産事業振興センターの偉業推進委員長にも当初から就任され、官公庁をはじめ企業等からの受注確保、販路の拡大、共同受注等を積極的に進められ、大阪の障害者の賃金の向上に寄与された功績は大きいものがあります。
 亀井勝氏は、故小倉昌男氏とも親交があり、大阪府授産事業振興センター事業推進委員長の在任中には、小倉昌男氏を大阪にお招きし大阪の授産関係者に授産経営や障害者の自立に必要な賃金の考え方について、意識改革を進める努力を続けられました。
 2001年全国社会福祉協議会全国社会就労センター事業推進委員長を勤め、2003年定年退職に伴い全役職を辞任し、社会福祉法人ひびき福祉会理事長に就任、現在に至ります。
 さらに2005年、他の法人役員らと有限会社を設立し、障害者雇用の拡大を図るための事業を開始し、開拓的な事業を精力的に展開しています。
 2004年3月、自らの足跡をまとめて、著書「逃げたらアカン」を発刊し、社会福祉施設で働く仲間、職員、関係者へのメッセージを記録しまとめています。
 亀井勝氏は、障害者の就労保障と自立をめざし、常に障害者の立場に立ってその実現にむかって、大阪でも全国でも約30年間という長期間にわたって献身され、大きな功績をあげられていることは非常にすばらしいことであり、よってここに第7回ヤマト福祉財団小倉昌男賞の候補者として推薦いたします。

ヤマト福祉財団 小倉昌男賞

高橋 昌巳さん

高橋 昌巳さん

  • 社会福祉法人 桜雲会 理事長

【略歴】

1930年 東京都生まれ
1957年 日本獣医畜産大学卒業
1964年 日本医科大学助手・社会福祉法人桜雲会理事
1973年 聖マリアンナ医科大学助教授
1976年 社会福祉法人桜雲会理事長
1992年 筑波技術短期大学教授
1995年 筑波技術短期大学定年退職
以後桜雲会理事長に専念、現在に至る。

【推薦者】 高橋秀治さん
(社会福祉法人 ぶどうの木 ロゴス点字図書館 館長)

【推薦理由】
 社会福祉法人桜雲会は、現在JR高田馬場駅の外側にある点字出版施設です。明治25年1月、東京盲唖学校(現筑波大学付属盲学校)の同窓会として点字書発行と親睦を目的として発足。昭和27年に社会福祉法人となったが事業は弱体化し、昭和40年には解散の危機に陥りました。そのとき、同窓生で鍼の名人と言われた現理事長の父君、全盲の高橋豊治氏が自宅に引き取り、以後、実務は長男の高橋昌巳氏が受け継いで今日まで点字出版を続けてこられました。
 昌巳氏は、「父からあん摩・はりきゅうでは生活できない全盲の弟子を何とかしてくれ、と言われて引き受けた」と当時を振り返ります。歴史はあるが心細い事業でした。医科大学助教授を務める傍ら土日を返上して、わずか2名の職員とともに再建に取組まれました。あん摩に適さない視覚障害者の自立のために、多くのあん摩・はり・きゅう師の専門性を高める医学書籍を中心に点字出版に打ち込んだのは、一つの巡りあわせでしょう。
 それから40年余、医学書のほか、盲学校教科書、弱視者用拡大教科書、IT関連雑誌発行のほか自治体広報も受注し、事業を軌道にのせました。この間、点字使用者の減少・高齢化などの環境変化に苦慮されましたが、視覚障害者のニーズをくみ取った企画を打ち出して危機を克服。職員も互いのハンディを助け合って働きました。
 一方、平成12年には九段に、小学館と共同して特例子会社九段パルス(マッサージルーム)を起こし、視覚障害マッサージ師の働く場を確保しました。
 現在、職員は視覚障害者5人、肢体不自由者2人、それにパート9人(うち視覚障害者4人)を擁します。平均給与は、17〜18万円といいます。その努力が認められ、平成16年、17年と連続して3人の職員が東京都雇用促進協会より優秀勤労障害者として表彰を受けています。こうして昌巳氏は、父の願いどおり桜雲会再建を果たしました。
 さらに昌巳氏は国際交流にも目を向けました。平成10年から5年間、関係者の協力を得てベトナムのホーチミン、ハノイ、ダナンの各盲学校でマッサージセミナーを開催し、日本あん摩の優秀な技術を伝達・指導し、職業自立に悩む視覚障害者の支援を続けました。その過程で、同国盲学校の教科書不足を知り、点字製版機、印刷機、作図機、人体模型などの情報機材を提供し、教育環境の改善に貢献しました。
 今、昌巳氏は「これから障害者の働ける仕事であるマッサージの再教育を」と意欲を燃やすと同時に、「しかし歳だ。事業を潰さないで如何に次に引き継ぐかが課題」と足元を厳しく見据えています。ノーマライゼーションの理念に基づき、障害者自立に愛情を注がれた先達・小倉昌男氏が掲げた光が桜雲会に灯されることは、次への飛躍と活力につながると確信して、小倉昌男賞に推薦させていただきます。